英雄 チャンドラ・ボース

インド独立の英雄 ネタジ-スバス・チャンドラ・ボース

(Netāji Subhas Chandra Bose、नेताजी সুভাষচন্দ্র বসু )
※ネタジ(指導者の敬称で呼ばれる)

インド国民会議の年次総会で、 スバス・チャンドラ・ボース(軍服)と モティラル・ネルー議会議長

本日は、インド独立運動の闘士チャンドラ・ボースの祥月命日である。  

日本の潜水艦I-29の最前列(左から2番目)に座っているチャンドラ・ボース(1943年4月27日)
スバス・チャンドラ・ボース

チャンドラはインド神話の月の神、転じて仏教の月光菩薩。
この名を持つ男が1897年、独立前のインド・ベンガル州で生まれた。

インド独立の父を世界的には「ガンディー」指す事が多いようだが、インド国内ではガンディーと並び一番に名前が挙がるのが(特に出身地のベンガル地方)では、「チャンドラ・ボース」である。

ニューデリーの国会議事堂中央大ホールには、正面には「チャンドラ・ボース」、右には「「マハトマ・ガンディー」、左には「ジャワハルラール・ネルー」の肖像画が掲げられている。

スバス・チャンドラ・ボースの切手
スバス・チャンドラ・ボースの切手

弁護士の父のもと、裕福な家庭に生まれ育ったチャンドラ・ボースはカルカッタ大学卒業後、ケンブリッジ大学大学院に留学。帰国後24歳でガンディーの反英不服従運動に身を投じた。
その後、大英帝国の敵国ドイツに渡りインド独立運動を展開していたが、ヒトラーの協力は得られずにいた。その頃日本はマレー作戦・香港攻略戦・セイロン沖海戦と立て続けに英軍を破る。独立の夢を日本に託す為チャンドラ・ボースはUボートで南方戦線へ、そこで日本軍と合流。
亡命行の旅の中、ドイツからフランスに移り、ブルターニュ半島西端の港湾都市ブレストから独海軍Uボート U180でマダガスカルに向かい日本海軍伊号第二九潜水艦に乗り継ぎ東京に到着した。
1943年5月16日初めて日本の地に降り立ったボースは当日、二代目のインド国民軍最高司令官・インド独立連盟総裁の座に着く。
東條英機首相との面会ではボースの胆力・人間性に惚れた東條から、独立支援と自由インド仮政府首班への道筋を付けてもらった。

日本の支援を受けたボースはインド国民軍を率いて前線に出撃、インパール作戦に参戦、敗れはしたがそのままビルマ戦線で奮闘、日本陸軍と共に終戦迄戦った。
チャンドラ・ボースの活躍にインド国内から貴金属・宝石類が、当時の金額で6億4,000万円分集まり、これを資金に満州へ渡り、ソ連の協力を取り付け独立運動を継続する計画を立てた。

1993年に発行されたインド国民軍(INA)50年の記念切手で、国民軍の兵士を閲兵するスバース・チャンドラ・ボースが描かれている

日本陸軍の協力で 空路台湾経由で満州入りが決まり、すぐさま決行。しかし、台湾で飛行機が離陸に失敗、ボースは瀕死の重症を負う。
1945年8月18日、友人の作ったカレーを2~3口食べると「美味しい」と一言。 

そのまま息を引き取ったと云う。

駆け抜ける様な48年だった。
本年はチャンドラ・ボース生誕125年となる。
そしてインドの人々は今でも彼を尊敬の念を持ち英雄を記憶している。

スバス・チャンドラ・ボースの切手
スバス・チャンドラ・ボースの切手 肖像の横にはインド国民軍の旗幟、統一(ittehad)信仰(Etmad)、犠牲(Kurbani)の文字が読める

遺骨と財宝は、9月5日
日本に到着、参謀本部から自由インド仮政府に引き渡された。
9月18日、日蓮宗の蓮光寺で葬儀が執り行なわれ、そちらで遺骨は安置された。

JR高円寺駅から環七を南下、蓮光寺に今も眠っている。

日印の架け橋
ネタジ・スパス・チャンドラ・ボース
語り継いでいきたい人物である。

ネタジ・スパス・チャンドラ・ボースの銅像

頂光山 蓮光寺 日蓮宗
東京都杉並区和田三丁目30番20号
旧本山は身延山久遠寺。通師・堀之内法縁。