2022年7月

天皇弥栄
明治天皇 第百二十二代天皇

明治天皇 明治天皇御製  よきをとり あしきをすてて 外国(とつくに)に    おとらぬ国と なすよしもがな 明治四十五年七月三十日に崩御 されました。 【御名・御称号・お印】睦(むつ)仁(ひと)・祐宮(さちのみや)・永 […]

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天皇弥栄
二条天皇 第七十八代天皇

雅仁親王(後の後白河天皇)の長男として御生まれになられる。音楽を好み、琵琶に精通され、和歌に秀でられた二条帝であった。
後白河天皇の弟覚性法親王のいた仁和寺に入り仏道を修行され、父の即位とともに還俗、皇太子となられ、三年後の1158年(保元3年)後白河天皇から譲位され即位され天皇となられた。しかし翌年「平治の乱」が勃発。
乱後に後白河院政派と二条天皇親政派の父子対立が激しく困難の政局であられたが、英明の帝は根気強く実権を掌握された。しかし、本格的な天皇親政をはじめようとしました矢先、病気のため23歳の若さで崩御されてしまった。
以後平清盛に実権を握られることになった。

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国士の旅
秩父路を往く(七) 秩父御嶽神社

御嶽行者であった鴨下清八翁が明治二十八年十一月、木曾の御嶽山より御嶽大神を勧請し秩父御嶽神社を創建した。
清八翁は、日露戦争の後、東郷平八郎元帥の人柄と精神に感銘を受けて銅像の建立を志し、再三に渡り陳情した末、清八翁の誠心誠意の熱意が元帥の心を動かし承諾を得て像が建立された。大正十四年四月十七日の除幕式には、東郷元帥自ら随伴者とともにご臨席されるという栄誉も賜った。

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国士の旅
国士巡拝相模【大塔宮護良親王】

北条高時(得宗家当主・第14代執権)の次男勝寿丸(相模次郎時行ときつら)が鎌倉幕府再興のため挙兵(中先代の乱)し、足利義詮よしあきらが治める鎌倉に攻め入った。足利氏の主力部隊は、後醍醐天皇の新政府が、足利氏が鎌倉を拠点に「新幕府」を起こすことを警戒していたため、尊氏とともに京都に留め置かれていた為、万全の防御態勢をとれなかった。

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勉強会・講演会
梁瀬幸裕大人之命 祥月命日

令和二年七月二十二日未明に心不全により永眠された。享年五十七歳。
梁瀬君は、昭和維新連盟三代目会長薗田新氏の御長男で、若くして愛国陣営に身を投じた強者であった。

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事務局より
「憲法維新論」上梓

戦後の国論を二分してきた憲法改正議論だが、その成立の不透明さを護憲派は何故だか避けてきた。しかし、占領下の日本で公布された「日本国憲法」は、体裁上は国際法に則ってはいるが、原文英文のGHQによる理不尽な押しつけ憲法である事は事実である。
本書は、戦後日本の多くの病巣を生み出した「日本国憲法」の瑕疵と偽瞞を炙り出し、短歌という形の要項集でまとめ上げた作品である。
マッカーサーの戦略・制定過程・理不尽なる脅迫を時空列で追いながら全容を明らかにし、憲法改正の必要性を問う、尊皇歌人・荒沢義実氏による魂の叫びである。

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天皇弥栄
宇多天皇 第五十九代天皇

光孝天皇の第七皇子。臣籍から皇籍復帰し皇位継承。
藤原摂関家氏長者である藤原基経を初の関白としたが、基経の死後は藤原氏の勢力を抑えて親政を行った。側近として支えていたのが、菅原道真。
歴代天皇としてはじめて退位後に出家し「法皇」になられた。紀貫之や紀友則ら、多くの歌人が活躍する場を生み出した文化の理解者でもあった。
善政で知られた御歴代の多くは宇多天皇の「寛平の治」を踏まえたものだと称されいる。
余談ではあるが、宇多帝の日本最古の飼い猫記録が載っているらしい。源氏物語の注釈書の一つ「河海抄」に「寛平御記(宇多天皇御記)」より引用したとある。

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天皇弥栄
皇位継承を御考察 其の参【異常事態の中でうまれた女性天皇】

女帝の時代とは具体的には、
【三十三代 推古】から【四十八代 称徳】までの十六代を謂う。 
なんと、十六代中八代(重祚二代)が女帝なのである。 
更に、この十六代(十六世代交代)中、父帝から皇子(みこ)への継承は、明治政府が認定した「天智→弘文」の一継承のみであるが、日本書紀には弘文=大友皇子の即位の記録はない。
実際にはゼロなのだ。

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国士の旅
秩父路を往く(六)  出雲伊波比神社


神社に伝わる「臥龍山宮伝記」によると、景行天皇の53年に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征を成し遂げ、凱旋した際、この地に立ち寄り、天皇から賜ったヒイラギの鉾をおさめ神宝とし、出雲の大己(オオナムチノ)貴(たかし)命(チノ) をまつったとされ、また、成務天皇の御代に武蔵国造兄()多毛比(たもひの)命(みこと)が、出雲の天(アメノ)穂()日(ヒノ)命(ミコト)をまつり、大己貴命とともに出雲伊波比神としたとされている。





中世・近世には茂呂明神、毛呂明神、飛来明神、八幡宮などと呼ばれた。



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天皇弥栄
桃園天皇 第百十六代天皇

江戸幕府第9代将軍・徳川家重の時代、日本史上初となる尊王論者を弾圧した宝暦事件が起きた。1758年竹内式部が天皇や公家たちに尊王論を講義したことで京都を重追放された事件。
1767年の明和事件、山県大弐の幕政批判と藤井右門の過激な発言を危険視して、二人とも死刑にした。
宝暦事件8年(1758)で処罰された竹内式部も関与を疑われ、八丈島への流罪途中、三宅島で病死

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