2022年8月
アジア文化研究学会納涼会
アジア文化研究学会納涼会 琉球料理「みやらび」。主人の川田禮子さんは琉球舞踊、冠船流の家元としてつとに有名である。昭和8年沖縄に生まれる。四歳から琉球舞踊の世界に入り、七歳の頃から“天才少女”と賞賛された方である。 三線 […]
神風特別攻撃隊とは何か【其の五】最後の特攻
昭和20年8月15日、正午の玉音放送は雑音で聴き取りは難しい状況であったが、降伏を知った宇垣中将は自ら特攻出撃すべく山本五十六元帥拝領の脇差を手に飛行場に向かった。
「いまだ停戦命令に接せず、多数の純忠の将士のあとを追い、特攻の精神に生きんとするにおいて、考慮の余地はない」と言い切り出撃した。
国策企業から国賊企業への変身 其の壱
死者に鞭打つは本意でないが、日本をレームダックさせたのは、小泉純一郎・竹中平蔵だけではない事を御理解頂く為、影のグローバリストに御登場願うことにする。国賊「成田豊」は、電通第9代代表取締役社長、第2代代表取締役会長、代表取締役最高顧問を歴任した大実業家?である。
秩父路を往く(九) 椋神社
人皇十二代景行天皇御代、日本武尊東夷征伐のとき、霧が深くて進めず、軍神である猿田彦大神に神慮を請い伊久良と云う地に鉾を立てたところ、光を放って飛翔し井泉の椋の木の下に老翁が出現し、皇子を導いたと云う。
平安期になり俵藤太による平将門討伐の祭、俵藤太が当社に詣で、祈願したことにより将門一門を討つことがかない、俵藤太によって春日四神を合祭され井椋いくら)五所大明神と号していた。
「椋神社」という名の神社は秩父には他にも4社存在するが、吉田の「椋神社」最も知られている。
境内で開催される秋祭付祭の「龍勢祭」龍勢煙火は国の重要無形民俗文化財に指定されており、伝統を受け継ぐ27流派により30本の龍勢が打上げられる。
龍勢と呼ばれる打ち上げ式の煙火は,五穀豊穣や天下泰平等を祈願して奉納する行事である。
明治17年(1884年)10月31日、秩父事件の困民党軍決起の地でもある。
【明朗会十二烈士女】弔魂七十七年
大東亜戦争敗戦の混乱の時期であった昭和20年8月23日午前、明朗会めいろうかいの会員が宮城前広場で二列縦隊に並んで宮城遥拝きゅうじょうようはい後、11人は短刀で割腹したうえ喉を突いて自決し、それを見届けた日比和一会長も拳銃で自決を遂げた殉国の義挙であった。
尊攘義軍十二烈士女 七十七年祭
昭和二十年八月廟議降伏に決するや決起して内府木戸邸を襲ふ
転じて愛宕山に篭り所在の同志と呼応
天日を既墜に回さむとする者 即ち尊攘義軍十烈士
しかれども遂に二十二日午後六時 相擁して聖寿万歳とともに手榴弾を擲ち一瞬にして玉砕す
時俄に黒風暴雨満山を蔽ふ
二十七日払暁 同じき処に座して二夫人亦従容後を遂ふ
忠霊芳魂 永遠に此処に眠る 遺烈万古尽くる時なからず
秩父路を往く(八) 城峯神社
景行天皇の皇子・日本武尊が東征の折、風光明媚な神山に登り、矢を納めて大山祇命を祀ったことが開創とされており、狼信仰の社としても知られている。
社の御眷属は「巨犬」大口真神とされており、社殿の前には日本武尊にちなむ山犬型の狛犬が控えている。
平安時代、平将門が下総で追討軍との戦いに敗れ、城峯山で再起を図ろうとしたが、愛妾・桔梗の裏切りによって儚い最期を遂げたという伝説があり、山中では今も桔梗の花は咲かないという。
官軍として追って来た藤原秀郷が乱平定後、祭祀を行い「城峯」の号を奉り、その後城峯神社と呼ばれるようになった。
英雄 チャンドラ・ボース
インド独立の英雄 ネタジ-スバス・チャンドラ・ボース (Netāji Subhas Chandra Bose、नेताजी সুভাষচন্দ্র বসু )※ネタジ(指導者の敬称で呼ばれる) 本日は、インド独立運動の闘 […]