2023年2月
【二・二六事件】賢崇寺【墓前八十七年祭】
昭和維新運動の中核を成す二・二六の決起から八十七年となる。
アメリカを発端とした世界恐慌の波は我国にも押し寄せ、経済は疲弊し「大学は出たけれど」と言った流行語が示すように、インテリ階層ですら職にありつくことは困難な社会状況を作り出した。
そこに東北地方を冷害が襲い、米・野菜と言った農作物の収穫は壊滅状態となり農家は収入の途を絶たれた。
年端もいかない娘を身売りせねばならぬ程に農民等庶民階層の生活は危機的状況に陥っていたのである。
にも拘わらず巨大資本家は政治家と結託し、営利至上主義の下で私腹を肥やしていた。
この状況を座視し続けることは天皇陛下の大御心にも反する愚挙である。天皇親政の革新国家を打ち立てるべく、陸軍皇道派の青年将校が中心となり民間人と協力し決起したのが昭和十一年の所謂二・二六事件である。
その至純なる精神に裏付けられた決起ではあったが、成就することはなかった。
西山廣喜先生祥月御命日
昭和維新連盟盟主、西山広喜事務所代表、財団法人日本政治文化研究所理事長、国粋主義雑誌「日本及日本人」社主、昭和の時代までは民族系新聞で唯一の日刊紙であった「やまと新聞」
第百十一代天皇【後西天皇】
古典への理解も深く文芸の道に秀で和歌・連歌に堪能であられ、歌集「水日集」や「源氏聞書」「百人一首聞書」等の著作を多数残し御撰には「集外歌仙」がある。更には茶道・華道・香道にも練達で、勅作の香銘も多数ある。
しかし、治世中には伊勢神宮・大坂城・内裏などの炎上や明暦の大火(振袖火事)、地方の地震、水害などが多発した。
第八十二代天皇【後鳥羽天皇】
文武両道に秀で、文化芸術を愛した多才ぶりを発揮した後鳥羽天皇。
和歌の三大集の一つである「新古今和歌集」を藤原定家に命じ編纂されました。新古今和歌集に代表される歌風や歌調は、その後の和歌の作風に大きな影響を与え「新古今調」と呼ばれています。
19歳という若さで第一皇子の「土御門天皇」に譲位し、後鳥羽上皇となります。その後、「順徳天皇」、「仲恭天皇」と3代23年間に亘って院政を敷きました。
第八十八代天皇【後嵯峨天皇】
承久の乱で中立ではあったが土御門上皇(父)は四国に移された。1242年事故で四条天皇が十二歳で夭逝ようせいすると、鎌倉幕府の北条時康は順徳上皇系の即位を嫌い土御門天皇の第三皇子の邦仁親王を後嗣として選び即位した。
後嵯峨天皇は朝議を主導する為、4年後に四歳の後深草天皇に譲位され「治天の君」として26年間にわたり院政を行ったが、後継者を決定せず幕府に一任して崩御したで北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執の種を作ってしまった。
靖國神社清掃奉仕【令和五年如月】
靖國神社について
靖國神社やすくにじんじゃは九段坂の坂上に東面して鎮座し、日本の軍人・軍属等を主な祭神として祀る。
勅祭社で旧別格官幣社。
境内は、桜の名所として知られる他、大鳥居が東に向いている、数少ない神社の一つでもある。
単立宗教法人(単立神社)であるために、神社本庁との包括関係には属していない。
元来は東京招魂社とうきょうしょうこんしゃという名称であったが、後に現社名「靖國神社」に改称された。
招魂社であるので、氏子地域は存在しない。
創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が、後に内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍(陸軍省)と同海軍(海軍省)が祭事を統括した。1946年(昭和21年)に、日本国政府の管理を離れて東京都知事の認証により、宗教法人法の単立宗教法人となった先の大戦を含め英霊が眠る聖地である。
【北面武士】の懐かしき一言 其の弐
「中心」に統一された有機的生命体としての「日本のあり方」は、単なる部分に分割されて部分が主となる民主政治となったのである。しかし、かくて成就されたところの物質的せいかは、もしそれに「大和の精神」が注ぎ込まれなければ、それは闘争のための道具となるにすぎない。
【北面武士】の懐かしき一言 其の一
人の魂は向かい合う方向によって、死の方向にではなく生の方向へと導かれる。我が日本は西洋と東洋の文明を等しく吸収して、これを和合統一して世界を「一つの家」たらしめるべき使命を持つ国家である。
平和へか戦争へか、日本民族はそのキャスティングボートを持つ地球的位置にある。