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国士の旅
武州古刹歴拝の小旅【其の壱】水宮神社

室町時代に修験道の京都聖護院本山派として創建された「摩訶山般若院」と号した修験寺で、神仏習合が色濃く残る名社・水宮神社を訪ねた。
「摩訶」とは「大きなこと・優れていること」の意味で、「般若」は「大乗仏教の根本思想を説き真理をはっきりと見ることのできる知恵」だという。
明治初年の神仏分離令により社名を水宮神社と改めたそうである。

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国士の旅
秩父路を往く(十壱) 岩崎神社と天狗岩

吉田阿熊に鎮座するこの社は、城峯山に立て籠もった平将門公を討ち取った藤原秀郷が伊豆の三島大社を勧請したと伝えられている。

社名の「岩崎」とは、城峰山にたてこもった平将門を滅ぼした藤原秀郷が、伊豆の三島神社を勧請したことに始まるといわれ、その社名については、秀郷が城峰山を射た矢が落ちた場所を意味する「矢崎(やさき)」が転訛して「岩崎」になったと伝えられている。

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秩父路を往く(十) 三峯神社

秩父三峯の宮 三峯神社 御由緒 三峯神社の由緒は古く、当山大縁起によると日本武尊が伊弉諾尊・伊弉册尊をお祀りしたのが始まりと伝わる。景行天皇の命により東国平定に遣わされた日本武尊は、甲斐国から知々夫国を経て碓氷峠に向われ […]

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国士の旅
国士巡拝陸奥【霊山神社】 

別格官幣社 霊山神社 皇室の御崇敬が厚いと言われ、明治14年、建武の中興に尽力した功績により、陸奥国府のあった霊山の地に祀られ、別格官幣社となった。 北畠顯家卿は陸奥大介となり、弟・北畠顯信卿は陸奥介、甥の北畠守親卿は陸 […]

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国士の旅
国士巡拝陸奥【福島縣護國神社】

信夫山山麓に鎮座する護国神社で、戊辰戦争から第二次世界大戦までの殉死者6万8千5百余柱を祀っている。御祭神は、「護國の御英霊」「天照大御神」
信夫山は東から熊野山・羽黒山・羽山の三峰で構成され信夫三山と呼ばれ古代から山岳信仰の山である。

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名所旧跡
俳聖【松尾芭蕉】

滋賀大津の義仲寺という名刹が芭蕉の永眠の地。
大東亜大戦後、荒廃壊滅に瀕していた義仲寺の復興に尽力したのが我が一門の先師である三浦義一翁である。
義仲寺には、名の由来のとおり朝日将軍 源義仲・巴御前・山吹御前と彼を熱烈にを慕った芭蕉と共に昭和の文人 保田與重郎と三浦義一翁も眠っている。

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国士の旅
秩父路を往く(九) 椋神社

人皇十二代景行天皇御代、日本武尊東夷征伐のとき、霧が深くて進めず、軍神である猿田彦大神に神慮を請い伊久良と云う地に鉾を立てたところ、光を放って飛翔し井泉の椋の木の下に老翁が出現し、皇子を導いたと云う。
平安期になり俵藤太による平将門討伐の祭、俵藤太が当社に詣で、祈願したことにより将門一門を討つことがかない、俵藤太によって春日四神を合祭され井椋いくら)五所大明神と号していた。
「椋神社」という名の神社は秩父には他にも4社存在するが、吉田の「椋神社」最も知られている。

境内で開催される秋祭付祭の「龍勢祭」龍勢煙火は国の重要無形民俗文化財に指定されており、伝統を受け継ぐ27流派により30本の龍勢が打上げられる。
龍勢と呼ばれる打ち上げ式の煙火は,五穀豊穣や天下泰平等を祈願して奉納する行事である。
明治17年(1884年)10月31日、秩父事件の困民党軍決起の地でもある。

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秩父路を往く(八) 城峯神社

景行天皇の皇子・日本武尊が東征の折、風光明媚な神山に登り、矢を納めて大山祇命を祀ったことが開創とされており、狼信仰の社としても知られている。
社の御眷属は「巨犬」大口真神とされており、社殿の前には日本武尊にちなむ山犬型の狛犬が控えている。
平安時代、平将門が下総で追討軍との戦いに敗れ、城峯山で再起を図ろうとしたが、愛妾・桔梗の裏切りによって儚い最期を遂げたという伝説があり、山中では今も桔梗の花は咲かないという。
官軍として追って来た藤原秀郷が乱平定後、祭祀を行い「城峯」の号を奉り、その後城峯神社と呼ばれるようになった。

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秩父路を往く(七) 秩父御嶽神社

御嶽行者であった鴨下清八翁が明治二十八年十一月、木曾の御嶽山より御嶽大神を勧請し秩父御嶽神社を創建した。
清八翁は、日露戦争の後、東郷平八郎元帥の人柄と精神に感銘を受けて銅像の建立を志し、再三に渡り陳情した末、清八翁の誠心誠意の熱意が元帥の心を動かし承諾を得て像が建立された。大正十四年四月十七日の除幕式には、東郷元帥自ら随伴者とともにご臨席されるという栄誉も賜った。

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国士巡拝相模【大塔宮護良親王】

北条高時(得宗家当主・第14代執権)の次男勝寿丸(相模次郎時行ときつら)が鎌倉幕府再興のため挙兵(中先代の乱)し、足利義詮よしあきらが治める鎌倉に攻め入った。足利氏の主力部隊は、後醍醐天皇の新政府が、足利氏が鎌倉を拠点に「新幕府」を起こすことを警戒していたため、尊氏とともに京都に留め置かれていた為、万全の防御態勢をとれなかった。

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