山口二矢烈士祥月命日
皇紀二六八十二年十一月二日。 本日は山口二矢烈士 没後六十二年忌の御命日である。
社会党委員長浅沼稲次郎を昭和三十五年十月十二日日比谷公会堂において天誅の一刃を加えたのである。
斬奸状
汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢。
二矢烈士は警察の取り調べに於いて、「私の人生観は大義に生きることです」「自分の信念に基づいて行った行動がたとえ現在の社会では受け入れられないものでも、またいかに罰せられようとも、私は悩むところも恥ずるところもないと存じます」と述べ、浅沼委員長刺殺は全く自分一人の信念で決行したと供述している。
昭和34年、16歳で大日本愛国党に入党し、翌年に青年行動隊長であった我が一門の最高顧問であった吉村法俊翁と共に脱党し、「全アジア反共青年連盟」を結成。
辞世の句としてしられる
「国のため 神州男児 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に」
「大君に 仕えまつれる 若人は 今も昔も 心かわらじ」
の二首は、吉村翁が贈ったものであった。
東京少年鑑別所房内の壁に練り歯磨きで、「七生報國 天皇陛下万才」と書き遺した後に自決された。享年十七。清純なる烈士の魂の、あまりにも若き死出の旅であった。
【長青山 寶樹寺 梅窓院】 東京都港区南青山2丁目26-38