晩秋の国士墓参

三浦義一先生墓参

秋ふかく 病みたるひとを 思へかも

こころに沁みて りんどうを見ぬ

「飛天」より

三浦義一翁の墓参
三浦義一翁の墓参
三浦義一翁の墓参

三浦翁の自書による閲歴を「當観無常」「悲天」から抜粋し紹介したいと思う。

一、われ、17,8歳にして、作歌の術を知る。
その後、病床懈怠あるいは獄中閑日、のときより外、20年、歌なし。荒涼たる生活苦闘に終始の間、と知るべし。

一、のち、師なし。遼遠『萬葉』を宗とすれども、おりおり望洋の嘆あり(深遠な学問に対し浅才を嘆く)。

一、所蔵、東郷元帥の書を掲げて、わが生命の昂揚に資す。他意なし。

一、祖父は若松港建築に参す。明治中期のパイロットにして且つ、
  浚渫船第四洞海丸船長たり。
  不遜の点、大方の海容に俟つ。

明治31(1898)年 三浦義一翁誕生。
大正5(1916)年頃 義一翁28歳、北原白秋門下へ(白秋31歳)。
大正11(1921)年頃 義一33翁歳、白秋の下を去る。
昭和7(1932)年 義一翁44歳、大亜義盟を創立
同年  虎屋事件で逮捕。
昭和10(1935)年 義一翁47歳、津久井龍雄らと国策社を設立。
昭和13(1934)年 義一翁50歳、昭和十二年七月以降、拘置の苦楚を嘗むること七ヶ月。いまだ心のたんれん至らざるを痛感する処あり。  
昭和14(1935)年 義一翁51歳、中島知久平狙撃事件(中島飛行機創・政友会革新派総裁)始者にて収監される。
昭和15(1936)年 義一翁52歳、天長佳節の日附を以て、われ被告の身に拘らず、畏くも御賜を拝す。
昭和17(1936)年 義一翁53歳、季、風雲荒寥の候と雖も宿願叶えば佐渡経塚山麓真野川のほとり、真野山皇陵に粛しみて詣ず。大東塾影山正治一向に従うなり。しかれば諸友、人馬を組みてわが病躯をいたわり給う。

昭和18(1937)年 義一翁54歳、皇民有志決起事件(七・五事件)の非士、影山正治、長谷川幸男らに特赦の恩命下る。帰途、氏等四士礼装凛々しく来堂。
昭和19(1938)年 義一翁55歳、大東塾々監長谷川幸男に召集令下る。我褥上仰臥のまま、謹み歌いて遠離留別の情を述ぶ。嗚呼君よ、ただに逝け。雁の巣飛行場にくだりて、筑前より船出する影山正治の征旅を送る。  

昭和20(1939)年 義一翁56歳、終戦の大詔を拝す

「焼野原この庭あととおぼしき花つけにける女郎花はも」

「あおぐものやどれる露の秋ぐさは夜半に泣きたるひとのごとしも」
「しずかなるこのいきどおりとこしえに消ゆると思わず大和島根に」

「目の前に万朶の桜ちりにけるきのうをおもう誰かわすれむ」
昭和46年(1971)年4月10日逝去 享年73

「尾崎士郎による跋文」
「当観無常」「草莽」とつづいて、「悲天」の公刊されたことは三浦さんの心境に一大変化の来たことを示すものである。私と三浦さんとは同学年の戌年であり、二人ともすでに五十なかばを過ぎている。
私はこのすぐれた歌人の運命が必ずしも幸福であったとは思わぬが、さればといって不幸でもなかったと断言するわけにもゆかぬ。

彼の歌魂の清浄凛冽なることいついて説くべき時は既に過ぎた。三浦さんは死ぬべき生命を生き堪えてきた人であり、時代の混沌と複雑さを襤褸のごとく身にまといながら傲然としてあたらしい時代に呼かけやろうとしている。彼は永恒の青年であり、日常坐臥、抵抗の情熱に燃えている。

「悲天」が彼の生命であることは事実がこれを物語っている。そして、三浦さんの歌魂は今や三浦さんの生活を離れて中空高く彷徨っている。「悲天」は日本人の運命を象徴するものでありこれを声高くうたいあげる三浦さんの心は切なく、声は悲しく、唯、眼だけが爛々とかがやいている。

秋風に立つ男の姿である。                 

昭和二十八年 晩秋  尾崎士郎しるす

「當観無常」「悲天」

頭山満先生墓参

頭山満先生の墓参

頭山満先生が率いた玄洋社は、日本に於ける国家主義運動の草分け的存在であった。
大陸浪人にも影響力を及ぼし、アジア各地の独立運動を支え、愛国主義団体や民族主義団体の道を開いた近代日本草莽の巨人である。

筆保泰禎大日本愛国党元書記長御夫妻墓参

筆保泰禎大日本愛国党元書記長墓所
筆保泰禎大日本愛国党元書記長墓所
筆保泰禎大日本愛国党元書記長墓所
筆保泰禎大日本愛国党元書記長墓所

昭和50年の当時、首相であった三木武夫が進めていた政策で「核拡散防止条約」の早期批准に対し、大日本愛国党の筆保書記長は大きな危機感を持っていた。
そして六月、佐藤栄作元首相の国民葬が日本武道館で行われた時、武道館の玄関で筆保氏による天誅殴打事件が起き、早期批准は阻止されたのである。
師である赤尾敏先生と同じ愛国の熱い魂をお持ちになった国士であった。
一緒に眠る道子夫人も、赤尾敏先生の養女であったそうである。