差別と部落 其の壱 エタの源流

古代からの偏見と差別

「人は三人寄れば派閥が出来る」と言われるほど多数を好む。マジョリティによる賤民意識の始まりは、慣れ親しまないモノへの嫌悪・警戒感からであろうか?
マイノリティに対する偏見や差別が生まれるのは人のさがなのであろうか?
であるからか、賤民せんみん意識と区分の始まりは原始の時代にさかのぼるようだ。

被差別民たち

神武天皇による東征神話によれば、皇軍と長髄彦ながすねひこ兄磯城えしき八十梟帥やそたける等の異集団と、そして同族であっても辺境地域に住む民との征戦は激しく絶え間なかったと記されている。
古代国家で天皇が支配する地域の民が皇民であり、皇化の及ばぬ民は化外の夷狄いてきであった。
建国以降、「東夷とうい蝦夷えみし・アイヌ・毛人エミシ、「北狄ほくてき」越の国人・蝦狄かてき・出羽、「西蛮せいばん熊襲くまそ隼人はやと慰撫いぶと皇民としての教化により、全国は平定され内国化によって消滅し、同化していったのであろう。
征戦による敗戦部族の民が奴婢ぬひと呼ばれた賤民の一方の起源となったようだ。
上代日本の時代は農業が国の礎であり、貴族の下の自由民(公民)である百姓は「大御宝 おおみたから」と呼ばれていた。そして朝廷直属の職業部民「品部ともべ(軍事や生産を担当した技術民)」がおり、その下に「雑戸ざっこ」と呼ばれた不自由民と賤民(奴隷どれい)がいた。
「雑戸」は武具・鉄器・皮革・兵馬等を担当した手工業技師であり様々な社会制限があった。
そして古代律令制下の最下層民であった賤民は「五賤」に区別され、陵戸りょうこ官戸かんと家人やけひと公奴婢くぬひ私奴婢しぬひがいた。

中世の被差別部落

エタという語彙ごい


「穢多」の文字は、古い時代から存在した民俗語彙みんぞくごい(「エタEta or Etta」の音に当てた借字しゃくじ)である。
汚穢おえ/おわい=不浄は絶対的・普遍的な基準で決定されているのではなく、その時代や地域の社会的状況に基づいて生み出される思考様式なのである。

イメージ 賽河原

「エタの水上」なる京都

鴨川と桂川の合流地・佐比里さひのさとは有名なる賽河原さいのかわらの俗伝の起った場所であった。
古代より庶民の葬送の地として無縁非人とは不可分の「無縁」の地であった。
通説では、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神であるさえの神が習合した民俗信仰習合地であったという。
「中洲・河原・川中島」は境界的な「無主・無縁」の特性により「聖地」ともされながら、対極する葬送の地ともされた。
飢饉ききんに際しては餓死者が遺棄される場所であり、賤視される「河原者」の居住地でもあった。
佐比里に近接した舁揚かきあげが墓処の世話人に起因した部落であり、穢多部落の源流とも伝えられている。
後年には、都市に於ける河原のもつ汚穢性と聖性と豊饒ほうじょう性により、各地の中洲・河原は交通の要地として経済や芸能による生産性の豊かな場所として発展した。

大墓公たものきみ阿弖流為アテルイ之末裔