【差別と部落 其の弐】穢 kegare

黄泉の汚穢

古代・中世・近世を通して被差別観の根源である卑賤視ひせんしと忌避意識は形は変わっても常に存在していた。
上古の神々の時代から日本人は死を恐怖しみ嫌い、死をけがれと考えていた。

黄泉の国よもつくにに向かった伊邪那岐命いざなぎのみことは妻伊邪那美いざなみの腐乱し膿沸うみわ蛆虫うじむしうごめおぞましい姿を見てて逃げ還られたという異郷訪問譚いきょうほうもんたんの神話は有名であり、本居宣長は「古事記伝」で穢れの起源をその「黄泉よみの汚穢」と論じている。
大国主命おおくにぬしのみことの子の阿遅鉏高彦根命あじすきたかひこねのみことも葬儀に訪れた時に死者に間違えられ怒り狂い「何とて吾れをきたなき死人に比ぶるぞ」と剣を抜き喪屋もやを切り倒し死体をけとばしたと云うほど死を忌み嫌ったという。

古事記神話伝承地の黄泉比良坂よもつひらさか

神聖観念と不浄観念

「穢」は本来宗教的な神聖観念(霊力・呪力・威力)の一つでもあるが、罪や災いと共に日本古代の不浄ふじょう罪穢ざいえ観を表している。
いみまたは服忌ものいみを記紀では穢・汚・汚垢・汚穢・穢悪などと表記され、「ケガラワシ」とも「キタナシ」とも読まれている。
災いが起こる原因「罪」と「死」とに繋がる不浄なモノが「穢」なのである。

英国の文化人類学者メアリー・ダグラス(Mary Douglas)は汚穢概念(pollution)について「絶対的汚物といったものはあり得ず、汚物とはそれを視る者の眼の中に存在するにすぎない」と論じている。

日韓合邦前のソウルは世界一の汚穢都市だった

朝廷祭祀と触穢観念

朝廷祭祀に於ける穢れについては、平安初期に編纂へんさん・施行された基本法典「弘仁式(弘仁11年 820年)」「貞観式(貞観13年 871年)」から受け継がれた「延喜式(延長5年 927年)」で穢れ観念と行動規範の基準が成立した。
その「穢」を考察すると、死穢・産穢(荒忌)・胎傷穢(死産)・血穢・六畜の死穢産穢・失火穢があり、具体的内容と触穢の定義を定め行動規範を示している。
観念的な触穢しょくえ、「ケガレ」と「キヨメ」の都市構造が天皇を中心として構築されていったのではないであろうか。

【加賀國一之宮】白山比咩神社 触穢の所

払拭できない「穢の者たち」

死穢をキヨメめ罪穢つみけがれはらう儀礼「修祓しゅばつ」がある。

服忌ぶっきのときみそぎによって清浄な体に浄め、祓えによって悪疫あくえき退散祈願と心の不浄を清める浄化の所作をするのである。

しかし、服忌によっても禊祓みそぎはらえによっても払拭できない「穢」の者たちが存在する。
漢字の中で「穢」という字ほどイメージ的に呪われた文字はない。

広辞苑では「身に接し目に触れ、器物衣食に及ぼす一切の不浄をいう」とあり、けがれ・きたない・わるいと散々である。
その文字から生まれた「穢多えた」という同情なき侮蔑の名称は呪われている。
「穢多」は「エタ Eta」と読まれているが、 文字を離れての呼ぶ場合の通称は「エッタ Etta」である。
「穢多」という文字が累をなして、世の中の人から理由も知られずにただ穢(汚)ないものだと盲信せられ続けた事実は哀しい。
更に、非人は足洗あしあらいをして平民になる道もあったが、「エタ」は人そのものが 穢れているからと足洗は絶対に出来なかったのだから生れ落ちたら逃れる術のない非情なる絶望の境遇である。
「穢多非人」の称は明治四年に廃せられたので、それより後「エタ」なるモノは法的に存在はしない筈であるが・・・

穢れの観念をめぐっては時代の推移と変化そして社会的背景の相違に注意する必要があるが、人心に住む差別の心の闇は今も消えない。

大墓公阿弖流為之末裔

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