昭和大帝を偲び・・・昭和を想う
昭和の残像
物心つく前から、稽古のお供で父に連れられ通った 日本空手協会本部道場。
自衛隊のジェット機が空に五色の輪を画く頃、空手を始める様になった。
入門時、四谷に在った本部道場は、翌年水道橋に移転した。
神楽坂の自宅からは、一人で歩いて通える様になった。
そして二年程過ぎた、ある蒸し暑い日の午後・・・ 父と一緒にタクシーで道場に向かった。
水道橋の本部道場は、たしか後楽園のテナントビルだった・・・ 地階が卓球場・三階にボクシングの田辺ジム・その二階に在った。
事務所に入ると、首席師範・事務局長・他に一人の男性が座っていた。
怖い顔 それが その人 の第一印象だった。
立って父と挨拶を交わしたが、180cm近く有る父と比べ小柄だった。
その人 は、平日が多忙なので日曜の稽古を望まれている=父に担当せよとの事だった。
毎週では無かったが、三人の日曜稽古が始まった。
道場には、シャワーや大きな湯槽の風呂が有った。
稽古の後に入る風呂が好きだった。
父と その人 は、話が合う様だった。
その人 は、剣道もやっていた、碑文谷警察で初めたらしい、その時の助教が父の友人だった。
父は若い頃、衆議院議員だった叔父の秘書を務めながら護國團で活動していた。
そんな話をしながら、二人は風呂に入っていた。
風呂では、何時も その人 に言われた その言葉を文章化すると
「 君達は 日本文化の最後の継承者です そして最後は必ず誰かに引き継がなければならない 」
中学に上がると、毎日剣道に明け暮れ その人 には会えなくなった。
二年生の二学期、雲ひとつ無い秋晴れの空を五・六機のヘリコプターが旋回していた。
通っていた牛込第三中学校は、牛込台の高台に所在し、南隣に大日本印刷の本社、坂を下った谷地に印刷会社が連なり、向こう側の坂の上からは 自衛隊の市ヶ谷駐屯地になっている。
ヘリ は駐屯地の上を回っていた。
「大変だ!」 担任の先生が、その異変の原因を伝えに来た。
その日は、稽古をする気が起こらず、体育館の屋上の手摺に凭れ、真っ赤に染まった夕焼けを・・・その後五十年以上も見たことの無い真っ赤な夕焼けを見ていた。
やがてその赤は、オレンジ色へと変わっていった。
生まれて初めて「ほとんど眠れない夜」を過ごし、そのまま牛込警察の稽古に出向いた。
着替えを済まし、道場に入ると、助教に呼ばれた。
「ちょっとついてこい」階段を上り最上階から表に出ると
眼に飛び込んできたのは 屋上に敷かれた真紅の絨毯!
晩秋の陽光に照らされ細かい色の差まで判る深紅に変わった部分は
白のチョークで型どられ 横に文字が書かれてあった。
三島体 森田体 三島首 森田首
併せる手に泪が落ちた。
聴こえてきた・・・
「 君達は 日本文化の最後の継承者です そして最後は 必ず誰かに引き継がなければならない 」
住吉正州