治天の君
光明天皇【北朝第二代天皇】
即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、歴代天皇126代の内には含まれず北朝二代とされる。
後伏見天皇第九皇子。光厳天皇御舎弟宮。
足利尊氏が湊川の戦いで宮方に勝利し、後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃走。後醍醐天皇が退位せぬまま、尊氏から治天の君に推戴された光厳上皇の院宣により8月15日に即位された。
第七十七代天皇【後白河天皇】
鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年にわたり治天の君(上皇)として二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代にわたって院政を行った。
平清盛、源頼朝を翻弄した「日本一乃大天狗」と呼ばれた。
第八十八代天皇【後嵯峨天皇】
承久の乱で中立ではあったが土御門上皇(父)は四国に移された。1242年事故で四条天皇が十二歳で夭逝ようせいすると、鎌倉幕府の北条時康は順徳上皇系の即位を嫌い土御門天皇の第三皇子の邦仁親王を後嗣として選び即位した。
後嵯峨天皇は朝議を主導する為、4年後に四歳の後深草天皇に譲位され「治天の君」として26年間にわたり院政を行ったが、後継者を決定せず幕府に一任して崩御したで北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執の種を作ってしまった。
第九十代天皇 亀山天皇
後嵯峨天皇の皇子。母は中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。南朝(大覚寺統)の祖。
兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、亀山系南朝と後深草系北朝(持明院統)による対立が生じる端緒となった。
院政時代に「元寇」。
「身をもって国難に殉ぜむ」という強い決意であった。「増鏡」には、もし日本が侵略されるようなことがあればどうかこの命をお召しください、と筆をとられたことが記されてる。
第八十八代天皇【後嵯峨天皇】
榊とりますみの鏡かけしより神の国なるわが国ぞかし (続拾遺1457) 【御名・法名】邦仁くにひと・素覚 【陵所】嵯峨南陵さがのみなみのみささぎ即位22歳、在位5年、宝算53歳。誕生 1220年4月1日(承久2年2月26日 […]