国士巡拝相模【大塔宮護良親王】
大塔宮護良直親王【悲劇の征夷大将軍】
大塔宮護良親王は皇統第九十六代後醍醐天皇の皇子として延慶元年(千三百八年)に誕生され、十一歳にして比叡山延暦寺に入り、二十歳より同寺天台座主を務められ法名を尊雲法親王と号され比叡山の大塔に在されたことから、世に大塔宮(間違いではなく俗には言う)と称されたと言う。
不臣著しい執権家北条氏を倒す為、鎌倉幕府倒幕(正中の変・元弘の乱)の計画を立て挙兵した後醍醐天皇であったが、事敗れ捕らえられ隠岐島へ配流された。
討幕の芽は摘まれたかに見えたものの、大塔宮は幕府軍の追及を逃れ紀伊山地をめぐり、十津川熊野の集徒を従え、各地に令旨発し反幕府勢力をまとめる事に尽力を尽くされた。
後醍醐天皇が京都還御し天皇親政の「建武の新政」が始まり征夷大将軍・兵部卿に任じられたが、倒幕戦争の最後の最後に寝返り同じく征夷大将軍の座を求めていた足利尊氏との対立を深め、尊氏を襲撃しようとしたが失敗。
尊氏の力を恐れる父、後醍醐天皇の命によって謀反の罪で捕らえられ、足利方によって鎌倉二階堂の医王山東光寺に幽閉された。土牢に幽閉されている間、天皇に書状を送ったが、天皇の怒りを恐れた者のために、書状は天皇のもと届けられることは無かった。
北条高時(得宗家当主・第14代執権)の次男勝寿丸(相模次郎時行)が鎌倉幕府再興のため挙兵(中先代の乱)し、足利義詮が治める鎌倉に攻め入った。足利氏の主力部隊は、後醍醐天皇の新政府が、足利氏が鎌倉を拠点に「新幕府」を起こすことを警戒していたため、尊氏とともに京都に留め置かれていた為、万全の防御態勢をとれなかった。
足利軍は侵攻を食い止められず、鎌倉を放棄し三河国に敗走する時、あろう事か護良親王を足利直義は相模国高座郡大野村渕辺原の地頭・淵辺義博に弑逆させてしまったのである。
更に不遜極まりない事ではあるが、竹藪に御首を捨て去ったのだ。
その捨てられた御首は、理智光寺の住僧によって葬られたと伝えられている。
享年数え御年28歳。
その後、東光寺は廃寺になったが明治6年(1873)、明治天皇により跡地に鎌倉宮が建てられた。
尊皇の武将や親王の中で、正成公よりも顕家卿よりも、和歌の名手としても知られた宗良親王よりも、小生は大塔宮護良親王が好きだ。
才溢れ純粋過ぎた故、権謀術数渦巻く世では無力すぎた。
その若き人生を悲劇で幕を閉じられた親王殿下に合掌。
護良親王の妹が後醍醐天皇の命を受けて、北鎌倉にある東慶寺の5代目の尼として入り、「用堂尼」と呼ばれた。東慶寺には護良親王の幼名「尊雲法親王」が書かれた位牌が祀られている。
大墓公阿弖利爲の末裔