国策企業から国賊企業への変身 其の四
器用人と共に再び支那へ
奥道仁氏と唐健と三人で重慶にやって来た。
空港には、馮仕林と他に10人位の出迎えが待っていて、車5台(2台は警察と書かれた車)で移動し、火鍋の店に招待された。
馮仕林は声が大きく気さくなチェーンスモーカー。簡単に言うと「鄧小平」の甥の従弟だそうだ。
奥氏も大きな声の気さくなチェーンスモーカーだ。さらに二人共、細身で手が大きく酒はいくらでも飲めるのに一切口にしないというところまでよく似ていた。
奥氏は、ライオン㈱の商品で広告大賞グランプリを取ったり、
“このままでいいのか!サンケイ新聞”
“オレンジ色の憎いやつ夕刊フジ” のCM
中央アルプスの山々をパンした画に“アモーレの鐘が鳴る”でおなじみだったフジテレビのエンディングテーマの制作を、プロデューサー・ディレクター・コピーライター・カメラマン・エディターを一人でこなし、アシスタント(小生)とアフレコの局アナだけで完パケ上げてしまう、当時としては異色の存在だった。
さらに鹿内信隆フジサンケイグループ会議議長の専属カメラマン&映画監督として百数十本の記録映画・美術映画残していた。
重慶は暗い街だった。何処も彼処も暗かった
重慶は到着した空港、火鍋屋、重慶一の高級ホテル揚子江大飯店のロビーやエレベーターや部屋に至るまで総て暗い。暗すぎて本が読めないのだ。眠れないのでホテルの周りを歩く。真っ暗闇に目が慣れてくるとホテル敷地内の植込みの縁石に座っている人人人人。黙って座ってる人人人人。夜中の12時に人人人人。あまりの異様さに踵を返して部屋に戻った。“灯りのない街”これが重慶初日の印象であった。
そんな田舎町を度々訪れる事になった。
何故かそうなったか?
市光工業は部品調達の難しさから進出を見合わせたが、妻の伯父が旧埼玉四区選出の衆議院議員。昭和から平成への移行期に国務大臣環境庁長官を務めていた人物で、数社の企業に話しを通して、そのうち2社が重慶進出を決定したからだ。
平成7年のチャイナ旧正月には、馮仕林と一緒に鄧小平との面会(2時間も待って10分) が実現した。
そんな状況を電通・K氏に話した事が平成8年の「成田豊」のリクエストにつながる。
「鄧小平に会えないかな」そう云う「成田豊」に馮仕林を紹介した。二人は上海で会った。馮はかなり「成田豊」を気に入り、その後度々二人は会っており、馮が鄧小平に取り次いだお陰で「胡錦濤」だけで無く、後に首相の座に付く「温家宝」にも面会出来た。
しかし、成田の希望だった鄧小平と会う事は叶わなかった。平成9年2月、鄧小平は波乱の生涯の幕を閉じる。
その翌月の3月14日、重慶はチャイナ4番目の直轄市になる。面積は北海道と同じ位、人口3000万人を超える巨大都市の誕生であった。
国賊は韓流旋風を巻き起こした
その平成9年(1997年)、「成田豊」は記憶に残る業績を挙げる。中国中央電視台で韓流ドラマ「愛は何だって」がオンエアされ、先ずチャイナで韓流ブームが起こる。
このブームは2017年のチャイナ政府による韓流禁止令発布迄続く。そして、この年コリアは経済が悪化。
IMF危機が訪れ、金大中大統領は経済再建戦略として、韓流ドラマのコンテンツ販売とK−POPアーチストの海外進出を発表。売出しを「成田豊」に依頼した。これも成功を果たした。
このときのコリア政財界との関係が、2002年サッカーワールドカップ日韓共催へと繋がって行く。
次回は最終回 戦前戦中からの「電通の歴史」を解説する。
住吉正州