“義 戦” 台湾を救った陸軍中将「根本博」 

“義戦”台湾を救った根本博中将

根本博陸軍中将

本日6月26日(昭和24年)は、義の為に支那の民を救うため根本博将軍が、家族に「釣りに行ってくる」とだけ言い残し台湾へ密航した日である。
根本将軍は蔣介石との約束を守り台湾軍の将軍となり赤色支那人民解放軍の猛攻から「金門島」古寧頭戦役を指揮し死守した名将である。
根本博将軍は、明治24年6月6日、福島県岩瀬郡仁井田村(現・須賀川市)の農家に生まれた。生長の家を信仰していた。
勲一等・功三級。陸士23期。陸大34期。日本陸軍及び中華民国陸軍陸軍中将。

根本博駐蒙軍司令官

停戦命令に抗い人命を守り抜く

終戦時、陸軍中将・内モンゴル(蒙古聯合自治政府)駐屯の駐蒙古軍司令官の任に在った根本将軍は、昭和20年8月9日、突然のソ連参戦に対し、武装解除の命令を無視、3万人のソ連軍を2500人で迎撃。
戦闘は三日三晩続いた、更に八路軍からの攻撃にも対応、その間に軍令部の所在地「張家口」に避難してきた4万人の在留邦人を港の都市「天津」まで無蓋貨車で送致、無事全員を脱出させた。  
ソ連軍撤収後根本将軍は、旧知の国民党政府軍の傅作義に天津からの引揚船の手配依頼と北支駐屯兵団帰還に向けた連絡をとった後、部下と共に徒歩にて「北京」へ入る。

降伏文書に調印する北支那方面軍司令官を兼任した根本博陸軍中将

10月に降伏調印に署名するや直様、北支方面陸軍35万人の復員に動き出す。
[当初十年がかりと考えられていた全員撤収は翌昭和21年7月に完了した]

昭和20年12月18日、蔣介石に面会した根本将軍は、張家口の4万人帰還と北支方面復員を報告し、カイロ会談で日本の【國體擁護】を英国チャーチル首相・米国ルーズベルト大統領に対し発言した誠意に謝意を述べた。
そしてて「閣下が窮乏の時には必ずや駆けつけ御恩返し致します」と約束した。
その後35万将兵復員を終わらせ、昭和21年8月、最後の船で支那大陸を後にした。

復員から義戦の為、台湾へ

復員後、東京鶴川村(現・町田市能ヶ谷)の自宅に戻った根本氏であった。
大東亜戦争終結後、国共内戦で支那大陸は混乱の極地に達していた。
当初は圧倒的優位に立ち人民解放軍を駆逐していた蒋介石率いる国民党政府軍(国府軍)は、腐敗と内部抗争により徐々に人民の信頼を失い、形勢は一気に共産党側に傾き始めていた。
1948年(昭和23年)9月の遼瀋戦役で、林彪率いる東北野戦軍に敗れ満州を失い、そして年末から1949年初頭にかけての淮海戦役において、鄧小平指揮下の中原野戦軍に大敗を喫し、国府軍は長江の南へなだれを打って敗走し始めた。この淮海戦役と同時期に争われていた平津戦役では、林彪の東北野戦軍の前に国府軍60万人は壊滅、傅作義司令官は捕虜となった。
首都重慶はまだ国民党の支配下にあったものの、蔣介石に残された版図はほぼ福建省と台湾のみとなりつつあり、この地とて人民解放軍の怒涛の進撃の前には風前の灯火であった。

根本氏は、1949年1月蔣介石が総統を辞任するや、彼に対する恩義と約束の為、渡台を決意私財を売却して渡航費用を工面しようとする。
そこに、第7代台湾総督明石元二郎の長男・明石元長が現れ、台湾行きを懇願してきた。
明石は台湾で育ち、台湾留学生の援助団体「東亜修好会」を設立するなど台湾に強い思い入れがあり、根本の渡航費用は全額自分が作ると、九州方面へ金策に向かった。
GHQの監視下にあった根本は、「釣りに行って来る」と家を出ると、大陸時代の盟友吉村是ニ他五名の同士と合流、明石の待つ九州に向かった。
同年6月26日、明石の見送りで一行七人の乗った漁船は、宮崎県延岡市の海岸を出港した。
しかし、明石元長は過労が祟り、この六日後7月2日還らぬ人となった。享年42歳であった。

明石の急逝を、知る由もない根本氏であったが、彼にも不幸が襲っていた。船が岩礁に激突、船底から浸水し不眠不休で掻き出していたのだった。
漸く台湾の基隆に到着したのは、出発から2週間後の7月10日であった。
当局に連行された7人は、密航者として投獄される。しかし、根本投獄の報告がかつて交流のあった国府軍彭孟緝中将・「鈕先銘中将に伝わるや否や待遇が好転し、8月1日に台北へ移動した。
8月5日、アメリカ・トルーマン政権は国民党政府への軍事支援打ち切りを表明したのだった。
孤立無援の状態であった蔣介石総統と8月中旬、湯恩伯司令官の仲介で再会した。彼は「好!好!好!」ハオを連発、大喜びしていたと云う。
そして根本氏は、諸般の事情を鑑み、中国名「林保源」を名乗り、湯恩伯司令官の第5軍管区司令官顧問・中将に任命された。通訳を務めていた吉村是二も「林良材」と名付けられた。

前列三人目根本将軍、後列左より二人目湯恩伯司令官

根本将軍らは8月18日、台湾から福建省の厦門へ渡る。
厦門周辺を視察した根本将軍は、この場での勝機を見い出せず、湯恩伯司令官に対して 厦門を放棄し、金門島を拠点とする事を提案する。
根本将軍を「顧問閣下」と呼び礼遇していた湯恩伯司令官はこの案に賛同、新たな防衛計画が立案され、根本将軍は直接指導に当たった。

中華民国陸軍陸軍中将

1949年10月1日、毛沢東は北京に於いて中国共産党による「中華人民共和国」の成立を宣言した。
程無く国府軍は厦門を撤退、金門島での決戦が迫る中、根本将軍は日本陸軍の得意分野であった塹壕戦の指導を徹底的に行っていた。
10月24日人民解放軍の精鋭部隊約2万が大陸側の石井港を出発。25日午前2時頃、大金門島北部の古寧頭及び周辺に上陸開始、戦闘は27日早朝迄続いたが、上陸用舟艇への放火と塹壕の伏兵が切札となり、最後は住民に被害が及ばないよう島北部の海岸に敵をおびき寄せ、戦車の砲撃と海上からの艦砲射撃で挟撃、人民解放軍は全軍が失われた。 
全て根本将軍の施策であった。

古寧頭戦役に於ける根本将軍の戦略は・・・

1)敵部隊の上陸を容認する=まず敵をおびき寄せる

2)上陸用舟艇を焼き払う=逃亡阻止、後続の上陸を阻止し補給路を断つ

3)200以上の塹壕に伏兵=兵力を読ませずに奇襲攻撃  

厳島の戦いで「毛利元就」が大軍の「陶晴賢」を破った戦法そのものである。
さすが陸軍大学校で合戦の歴史を学んだ人の立案であった。

10月30日、湯恩伯将軍は幕僚達を引き連れて、台北に凱旋した。一行を迎えた蔣介石総統は、根本将軍の手を強く握り礼を言った。 恩返し、それだけの為に台湾に密航した根本将軍にとって十分な勞いであった。

金門島攻防図
金門島守備の戦車

1952年(昭和27年)6月25日、根本氏は羽田空港に降り立った、3年前家を出た時と同じ「釣り竿」を担いでいた。
その頃、国内では、蔣介石総統が戦局挽回を図る為、日本の旧軍人を募兵していた、「それに根本氏が関係している」との噂が立っており、大勢の報道陣が待ち構えていた。
「台湾で何をしてこられたか?」の質問に「天皇制は蔣介石総統のおかげで助かった、その感謝の意を伝えただけ。でも、募兵計画に参加したり、ましてや前線に出て指揮をとったりしてないよ」とはぐらかした。

東京・鶴川の自宅に帰った根本氏は、日本バナナ輸入協会会長の職に就き台湾産バナナの販売促進に従事。
その頃巣鴨プリズンを出獄した国士舘創設者・柴田徳次郎先生が毎朝、馬に乗り根本宅を訪れた。
柴田先生の方が半年程早く生まれただけだが、二人は気が合う様で茶を飲みながら楽しそうに話していたと云う。
そんな柴田先生にも、家族にすら「古寧頭戦役」の話はしなかったらしい。
1966年(昭和41年)5月、急に体調を崩し入院。一度は退院するも 5月24日逝去・・・享年74歳
根本将軍の義戦は終わった。

葬儀には一際大きな蔣介石総統からの花環が飾られていた。

根本将軍の活躍が世に出たのは、2009年(平成21年)に行なわれた「古寧頭戦役60周年式典戦没者慰霊祭」に於いて、中華民国国防部常務次長・黄奕炳中将が述べた、日本人関係者への感謝の言葉と公開された「蔣介石日誌」に記された内容に依ってであった。

住吉正州

蒋介石が感謝と友情の証として根本博将軍へ贈った花瓶
蒋介石が感謝と友情の証として根本博将軍へ贈った花瓶の箱書き