殉国 来島恒喜烈士の墓参
来島恒喜烈士【祥月命日】
来島恒喜烈士は大隈重信外務大臣を暗殺するべく、明治22年10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車ごと爆弾を投げつけ、右足切断の重傷を負わせた。
来島烈士は爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突き自害した。享年二十九であった。
安政6(1859)年12月30日、筑前福岡藩士・来島又右衛門の二男として生を受ける。
頭山満翁を筆頭に玄洋社の主要なメンバーを育てた男装の女傑・高場乱の興志塾に入門し志士の精神を培った。
興亜の先駆者・副島種臣や山岡鉄舟に薫陶を受け人格を磨き、中江兆民に仏語を学んだ後,頭山満翁率いる玄洋社に参加する。
不平等条約改正交渉の苦悩
明治21年(1888年)大隈重信外務大臣が不平等条約改正交渉を進めたが、不平等条約改正で領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復であったが、交渉の中で大審院の判事の任用を外国人にも与えるという軟弱極まる外交交渉であった。
玄洋社をはじめ国権党等の愛国団体や大同倶楽部・大同協和会・貴族院の保守中正派といった保守政党に加え新聞「日本」「東京新報」雑誌「日本人(日本及日本人の前身)」が猛烈な反対行動に出ていた。
殉国の士の最後の所作
歴史上、暗殺や討死によって最期を遂げた有名な人物は数多く存在する。ユリウス・カエサル(シーザー)やケネディ大統領。日本でも源実朝、織田信長、井伊直弼、佐久間象山、坂本龍馬・・・その暗殺者たちで武士道の誉れを全うしたものは少ない。
テロルの被害者であった大隈が
「爆裂弾を放りつけた者を憎い奴とは少しも思っていない。いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」
と語り、赤穂義士や島田一郎と来島烈士の最後を比べ、
赤穂義士は不倶戴天の仇たる吉良の首級を挙げたる直に、何故吉良邸で割腹しなかつたのか、大久保利通を斃した島田一郎を非凡の豪傑であったが、縲紲の辱めを受けて刑場の露と消えるという見苦しい最後となったのは、現場で腹を掻き切らなかった為だ
と評し褒めているのだから、明治の頃の日本人は、行為者も政治家も傑物がいたものである。
大墓公阿弖利爲の末裔