葦津珍彦翁【祥月御命日】

葦津(あしづ) 珍彦(うずひこ) 祥月御命日

( 誕生 明治42年(1909年)7月17日 -死去 平成4年(1992年)6月10日)

葦津珍彦翁【祥月御命日】

小生が日本の思想家の中で、もっとも敬愛する一人が葦津珍彦翁である。
神道思想家であり民族派行動者であった葦津翁は、「神道・天皇の弁護士」を自認されていた。

大東亜戦争敗戦により連合軍GHQに占領された我が日本は、建国以来最大に危機に瀕した。悪意ある白人レイシスト共は、国家神道をファシズム的国教と決めつけ、徹底的に弾圧を加えてきた。

更には、天皇をも危うい空気の中で、徹底して「国体護持」の活動に尽力された隠れた英雄が葦津翁なのである。
葦津翁が戦後、日本精神復興に果たされた役割は大きく、愛国者民族派の最も信頼すべき精神的主柱であった。

葦津翁は筑前福岡の人である。
葦津家は代々筑前(ちくぜん)筥崎宮(はこざきぐう)の社家の一つであった。
この珍しい読むのも難しい名である「珍彦(うずひこ)」の由来は、記紀(日本書紀)に登場する国つ神である椎根津彦(しいねつひこ)の別名である。
御尊父、耕次郎翁も「玄洋社」総帥の頭山満翁と親交を結び、在野で活動された真の国士である。

大墓公阿弖利爲の末裔


※「古事記」では槁根津日子。神武天皇が日向から東征して豊後水道にさしかかった時に漁師が現れて水先案内を買って出た。その漁師が「珍彦」と名乗った。倭に攻め進ん時には、蓑笠をかぶった老翁に扮して敵の目を欺き「天香山」の土を取ってきて天皇が土器を作り神を祭って勝利を得たとされたという伝承がある。倭国(やまと)国造(くに の みやつこ)を務めた倭直(やまとあたい)の祖とされる伝説上の人物である。

葦津珍彦翁【祥月御命日】
葦津珍彦翁【祥月御命日】神道墓がひっそりと佇む
葦津珍彦翁【祥月御命日】佐助共同墓地の入り口の坂