嗚呼 高山彦九郎先生
本日は維新魁の志士「高山彦九郎先生」の御生誕の日である。
延享4年5月8日(1747年6月15日) - 寛政5年6月28日(1793年8月4日)幕末、維新の志士達に大きな影響を与えた、尊皇運動の先駆者である。 彦九郎先生は、自らの尊皇思想を練り上げ、日本中に皇権復活「建武未遂の偉業の完遂」と復古神道の精神(日本民族固有の精神)を伝播した維新魁の志士である。
上野国新田郡細谷村(群馬県太田市)の豪農の二男として生を受けた。
高山家は南朝の忠臣新田義貞公が率いた「新田十六騎」のひとりに数えられた高山重栄(太平記巻14)の子孫であった。
齢13歳の頃、「太平記」を読み、南朝の遺臣が建武の中興の志を遂げられざるを見て憤り、慨然と発奮し赤誠の勤皇思想の志を起こされた。
18歳の時に尊皇の志を抱いて、皇國を学び研究する為に京都へ向かった。
三条大橋に着くと彦九郞先生は通りすがりの人に皇居の方向を聞き、橋上に跪き容疑を正し、皇居を遙拝し「我は草莽の臣、高山彦九郎」と号泣しながら叫んだと言われている。
皇國学問の講究に由つて24歳、細井平洲(上杉鷹山の師)に入門し、朝廷による文治政治が日本本来の政治の姿だとする反幕尊皇思想を磨き上げていった。 寛政2年、江戸滞在中の彦九郎翁は奥羽・蝦夷地を単身訪ねる決心をし、房総から津軽三厩を目指す長い旅にでた。行脚のなか、水戸で藤田幽谷(東湖の父親)・立原翠軒・木村謙次等と、米沢では莅戸太華等と、仙台では林子平と、各地で多くの人々と対談し、多くの憂国の士に勤皇心を呼び起こさせた事が幕末水戸学の尊皇攘夷思想から維新大業の回天に繫がったのである。
旅は津軽に至りはしたが、海峡越えは難しく蝦夷地を断念し、光格天皇の新皇居還幸の儀式見学の為、京に急行した。
そして、師走に京の地に舞戻った彦九郎翁に人生最大の喜びの時が訪れたのである。
草莽一介の身を以て、その名が今上天皇の叡聞に達するを聞き、感激は頂点に達したのであった。
われをわれと しろしめすかや すべらぎの
玉の御こえの かかるうれしさ
《歌意》
微賤なる草深い田舎侍の私を、高山彦九郎と思召し、親く玉音をお与えいただき、これはまた何という破格の光栄で、畏れ多いことであろう。
※すべらぎ…天皇のこと ※玉の御聲…天皇のお声がけ
後桃園天皇の養子として即位した光格天皇は実父典仁親王に対して太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうとしたが、老中・松平定信が反対したことで「尊号一件※1」が起こり朝廷は敗北し、幕府に追い詰められた彦九郎翁は狂気と失意の中、辞世の句を残して寛政5年6月28日に自刃した。
戒名は「松陰以白居士」。
朽ち果てて 躬は土となり 墓なくも
心は国を 守らんものを
彦九郎翁憤死後、時は経ち明治維新を成就させた勤皇の志士達は、私心なき純潔の行動者であった彦九郎翁に深い感銘を受け心の鑑と仰いだのであった。
幕末期の歌人【橘曙覽】による和歌
大御門その方向きて橋の上に
頂根突きけむ真心たふと
《歌意》
皇居の方向へ向つて三條大橋の上から、額を着かんばかりに望拜してゐる「眞心」の何と尊いことであらうか。
橘曙覽は「源実朝以後、歌人の名に値するものは橘曙覧ただ一人」と正岡子規も絶賛した人物である。
明治の中頃の俚謡、【サノサ節】には、
人は武士 気概は高山彦九郎 京の三条の橋の上
遥かに皇居をネ 伏し拝み 落つる涙は鴨の水 アサノサ
と謡いつがれたと京都市観光部振興課 高山彦九郎大人 顕彰会は記している。
久留米の【真木和泉守】も哀悼の歌を捧げている。
新らしと 人は言わねども 春はただ
古き神世に 立ちかへるらむ
【吉田松陰先生】。通称は「寅次郎」。諱は「矩方」。
字は義卿、号は「松陰」の他、「二十一回猛士」。
「松陰」の号は有名であるが、それは尊敬していた高山彦九郎翁の諡「松陰以白居士」からとったものだと言われている。
そして松陰先生の辞世の句は、彦九郎翁の辞世の本歌取りであろう。
躬はたとい 武蔵野の野邊に 朽ちぬとも
留め置かまし 大和魂
【西郷隆盛先生】も文久2年末、沖永良部島に幽閉中、彦九郎翁の激烈なる尊皇心をたたえる詩文を詠んでいる。
精忠純孝群倫に冠たり。
豪傑の風姿画図に真なり叵し。
小盗謄驚くは何ぞ恠しむに足らんや。
回天業を創むるは是れ斯の人。
大墓公阿弖利爲の末裔
※1【尊号一件】 光格天皇が父典仁親王に太上天皇の尊号を贈りたい旨江戸幕府に希望した際、不遜にも老中松平定信が「皇統を継がない者で尊号を受けるのは皇位を私するもの」として拒否した一連の事件。