尊皇攘夷桜田義士・佐久良東雄先生

桜田義士・佐久良東雄先生

「安政五戊午年三月三日於イテ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図」

今日は「勤王家中第一の歌人」と賞賛された尊皇攘夷桜田義士・佐久良東雄先生が無念の中で獄死された日である。

 君がため朝露ふみてゆく道は

   たふとくうれしく悲しくありけり  

 天皇に仕へまつれと我を生みし

   我がたらちねぞ尊かりける

 朝日かげ豊栄(とよさか)のぼる日の本の

   やまとの国の春のあけぼの

 よき人とほめられむより今の世は

   物狂ひぞと人のいはなむ

今日は「勤王家中第一の歌人」と賞賛された尊皇攘夷桜田義士・佐久良東雄先生。
江戸後期の文化8年(1811年)3月21日、常陸国新治郡浦須村(現茨城県石岡市)の郷士・飯島平蔵の長男として誕生。
幼名吉兵衛、出家し良哉、還俗し通称、靭負(ゆきえ)、のち静馬。(きょう)(えん)と号す。東雄は歌号。
15歳で出家し、天保6(1835)年真鍋村(茨城県土浦市)善応寺住職となる。
藤田東湖・会沢正志斎・加藤桜老・大久保要・色川三中・藤森弘庵らと交友。
13年12月平田篤胤に入門。翌14年6月鹿島神宮神前で潔斎し還俗、このとき佐久良(桜)東雄と改名。
弘化2(1845)年上洛、嘉永初年ごろより大坂坐摩神社神官を務め、一方国学書の出版を行う(坐摩版)。安政1(1854)年妙法院宮家家司となる。万延1(1860)年、桜田門外の変に際し大坂で高橋多一郎をかくまい上方で捕縛後、護送された伝馬町牢獄で無念の中で獄死された。

小塚原回向院に眠る尊皇攘夷桜田義士であった佐久良東雄先生墓所
向かって左側が桜田門外の変の志士たちの墓石で、その向かいが安政の大獄、坂下門外の変の志士たちの墓石
小塚原回向院 松陰二十一回猛士の墓所
小塚原回向院 大きな葵の御門が光る正面
愛宕神社 桜田義士の碑

【桜田義士関連一覧】
関鉄之介(水戸浪士。現場総指揮。文久2年斬罪。享年39)
岡部三十郎忠吉(水戸浪士。検視見届役。文久元年斬罪。享年44)
稲田重蔵正辰(水戸浪士。闘死。享年47)
山口辰之介正(水戸浪士。重傷負い自刃。享年29)
鯉淵要人珍陳(常陸神官。重傷負い自刃。享年51)
広岡子之次郎則頼(水戸浪士。重傷負い自刃。享年20)
佐野竹之助光明(小普譜。自首後、傷により死亡。享年21)
斎藤監物一徳(常陸神官。自訴後、傷により死亡。享年39)
黒澤忠三郎勝算(水戸浪士。自訴後、病死。享年33)
大関和七郎増美(水戸浪士。自訴後、文久元年斬首刑。享年26)
森五六郎直長(水戸浪士。自訴後、文久元年斬首刑。享年24)
蓮田一五郎正実[注釈 52](水戸浪士。自訴後、文久元年斬首刑。享年29)
森山繁之介政徳(水戸浪士。自訴後、文久元年斬首刑。享年27)
杉山弥一郎当人(水戸浪士。自訴後、文久元年斬首刑。享年38)
広木松之介有良(水戸浪士。2度西へ向かった後、文久2年鎌倉・上行寺墓地で自刃。享年25)
海後磋磯之介宗親(常陸神官。潜伏後、天狗党の乱に参加、維新後警視庁。明治36年没。享年76)
増子金八誠(水戸浪士。京へ向かった後各地に潜伏し、明治14年没。享年59)
有村次左衛門兼清(薩摩浪士。重傷負い自刃。享年23)
金子孫二郎教孝(水戸浪士。郡奉行。首謀者。文久元年斬罪。享年58)
高橋多一郎愛諸(水戸浪士。小姓頭取・矢倉奉行。首謀者。大坂にて自刃。享年47)
高橋庄左衛門諸恵(多一郎長男。大坂にて自刃。享年19)
有村雄助兼武(薩摩浪士。次左衛門兄。上京途上、薩摩藩兵により捕縛。切腹。享年26) 
佐藤鉄三郎寛(水戸浪士。追放刑。後に「佐寛筆記」を記した。大正4年没。享年80)
川崎孫四郎健幹(水戸浪士。郡吏。自刃。享年35)
小室治作正徳(自刃)
大貫多介則光(捕縛後獄死。享年26)
山崎猟蔵恭礼(捕縛後絶食死。享年33)
島男也竜雄(笠間藩士。捕縛後1861年獄死。享年53)
小野寺慵斎(三春藩脱藩者。参謀の一人。変後、土浦藩で兵学を教えていたが1861年自刃。享年70)
宮田瀬兵衛(水戸藩士。獄死。享年47)
木村権之衛門(水戸藩士。計画に参加、直接参加せず帰藩。文久3年3月26日死去。享年40)
飯田左馬忠彦(国学者。事件関与を疑われ抗議自殺。享年62)
後藤権五郎輝(水戸藩郷士。文久2年江戸・伝馬町牢で獄中死。享年32)
滝本いの(関鉄之介の愛人。元吉原谷本楼の妓。伝馬町牢で拷問後、獄死。享年23)

大墓公阿弖利爲の末裔