維新前夜の英傑たち

橋本左内・頼三樹三郎 祥月命日命日

橋本左内 景岳

安政6年〈西暦1859年)の今日、井伊直弼による安政の大獄で勤王攘夷派の橋本左内、頼三樹三郎らが斬首された。
橋本左内、諱は綱紀。号は景岳・黎園。享年25歳。
15歳の早熟な天才が自らが生きていく上での心構えを著した「啓発録」には、
啓発録 五訓
一、稚心を去る
一、気を振るう
一、志を立てる
一、学に勉む
一、交友を選ぶ
自らの志を留めた気迫の書である。
左内は幕末四賢侯の一人・松平春嶽公の右腕となり活躍し、南洲翁が最も尊敬した思想家であり行動者であった。
水戸藩の藤田東湖・西郷隆盛・小浜藩の梅田雲浜・旗本の旗本・熊本藩の横井小楠ら後世に名を残す英傑と交流する。

小塚原回向院 橋本左内墓所
小塚原回向院 橋本左内墓所

橋本左内辞 世の句  獄中作

二十六年、夢の如く過ぐ。

平昔へいせき顧思こしすれば感ますます多し。

天祥てんしょうの大節、かつ心折しんせつす。

土室どしつなほぎんず、正気せいきの歌。

(意訳)
思えば二十六年の生涯が、夢の如く過ぎ去った。
昔を思えば感慨は深いものだ。
かつては支那の文天祥の守り抜いた節義「大節」に敬服したが、
自分も同じく牢屋にあって、正気の歌を歌うのだ。
朝廷政治の復活を願う尊皇の情熱が、佐内にとっての「大節」であり、正気なのであったのだろうか。
        
吉田松陰は伝馬町牢内でその死を知り、
「左内と半面の識なきを嘆ず」とその死を惜しんだ。
奄美大島で隠遁中の南洲翁は、左内とはその死を知り、
「橋本まで死刑に逢い候儀案外、悲憤千万堪え難き時世に御座候」刑死を怒り悲しみ嘆いた。 
西南戦争で敗れ、城山の地で自刃した南洲翁が携帯していた革文庫の中に、左内からの南洲翁宛の手紙が収められていた。
南洲翁にとって左内という人物は、同志を超える永遠の友人であったのだろう。

頼三樹三郎 鴨崖

頼三樹三郎は江戸末期の儒学者「頼山陽」の三男で、佐藤一斎の門下。同門には佐久間象山・渡辺崋山・横井小楠・山田方谷等がいた。
大老井伊から梅田雲浜・梁川星巌・池内大学と並ぶ危険人物と見なされていた。

小塚原回向院 左端が頼三樹三郎墓所
小塚原回向院 左端が頼三樹三郎墓所

鴨崖 辞世の句

まかる身は君が代思ふ真心の 深からざりししるしなりけむ

維新前夜、天下の志ある侍はまったく私心がなく、ただ純粋に主義のために立ち上がり、生きるも死ぬも「道」のためという覚悟があった。 
「道」のためなら、たとえ死しても、天をも人をも恨まぬ心構えを持っていた。         
権力にありつこうとか、個人の恨みを晴らそうとかの気持ちが一切ないのが真の益荒男であろう。