第九十五代天皇 花園天皇
伏見天皇の第四皇子。母は、左大臣洞院実雄の女、洞院季子(顕親門院)。
歴代随一の好学の帝。歴代天皇の記録や和漢の史書、老荘をはじめ諸子百家にわたって読破された。
詩歌を好み「風雅和歌集」を監修され、帝道を説いた「学道之記」「誡太子書」などを宸翰された。
晩秋の国士墓参
頭山満先生が率いた玄洋社は、日本に於ける国家主義運動の草分け的存在であった。
大陸浪人にも影響力を及ぼし、アジア各地の独立運動を支え、愛国主義団体や民族主義団体の道を開いた近代日本草莽の巨人である。
昭和50年の当時、首相であった三木武夫が進めていた政策で「核拡散防止条約」の早期批准に対し、大日本愛国党の筆保書記長は大きな危機感を持っていた。
そして六月、佐藤栄作元首相の国民葬が日本武道館で行われた時、武道館の玄関で筆保氏による天誅殴打事件が起き、早期批准は阻止されたのである。
師である赤尾敏先生と同じ愛国の熱い魂をお持ちになった国士であった。
一緒に眠る道子夫人も、赤尾敏先生の養女であったそうである。
国士巡拝陸奥【福島縣護國神社】
信夫山山麓に鎮座する護国神社で、戊辰戦争から第二次世界大戦までの殉死者6万8千5百余柱を祀っている。御祭神は、「護國の御英霊」「天照大御神」
信夫山は東から熊野山・羽黒山・羽山の三峰で構成され信夫三山と呼ばれ古代から山岳信仰の山である。
第十二代天皇【景行天皇】
第十二代天皇。景行天皇。垂仁天皇(活目天皇)の第3皇子。日本武尊の父。皇后は播磨稲日大郎姫はりまのいなびのおおいらつめ。
武内宿禰に視察させた東国の蝦夷平定を日本武尊に命じた。
第百十七代天皇 後桜町天皇
後桜町天皇。皇室史における最後の女性天皇。桜町天皇と、正妻女御舎子(青綺門院)の間の嫡出腹の皇女として生まれた。第116代桃園天皇は異母弟。
光格天皇譲位後も、上皇として後桃園天皇・その後に即位した光格天皇の教育・補佐に当たりました。
「天明の大飢饉」の際にも上皇は3万個の和リンゴ配られ民衆救済に尽力を尽くされました。
野村秋介大人【祥月御命日】
野村秋介大人追悼二十九年墓前祭.
「口舌の徒が百万回喋っても、人は聞かない。しかし、命をかけて闘えば、勝ち負けは別として、言葉は通ずる。僕は、そういう生き方をしてきた」
第百代天皇 後小松天皇
6歳で第6代北朝天皇に即位し、16歳の時に南朝の後亀山天皇から神器を受け取り南北朝の合一を果たし第百代天皇と成られました。
実際、条件にあった持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)が交互に天皇となるという「両統迭立」の約束も果たされず、皇統は後小松天皇の系統で受け継がれることとなる。
足利義満の策略により、合一の条件にあった両統迭立の約束も果たされなかった。南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動の武装蜂起をおこしたが、やがて歴史から消える事となった。
殉国 来島恒喜烈士の墓参
来島恒喜烈士【祥月命日】 来島恒喜烈士は大隈重信外務大臣を暗殺するべく、明治22年10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車ごと爆弾を投げつけ、右足切断の重傷を負わせた。 来島烈士は爆弾が炸裂すると同時に […]
松本効三(耕三)さん
松本効三先生。享年五十八歳であった。日本青年旭心団副団長・民族革新会議副議長。兵庫県明石出身。
新宿駅前で毎月開催されていた「青空議会」の最も熱心な弁士で多くの庶民のフアンもおり「新宿の名物」の風景でもあった民族派の闘士。若き頃、大変お世話になった大先輩であるが西山の門から離れてお付き合いがなくなりお亡くなられた事も知らずに、犬塚先生からお誘いがなければ墓参りも出来なかった我が身を大いに恥じる。松本さん安らかにお眠りください。合掌