皇位継承を御考察 其の四【皇后位の変遷と女帝の時代】
皇后位の変遷と女帝の時代
女性天皇の即位前の御立場
女帝の時代には十六代の大王/天皇の内、八代六人の女性天皇が即位したのだが、その一人一人が即位前にどの様な立場にあったのか? を、振り返りたいと思う。
(1)推古大王/天皇
父 欽明帝 母 蘇我稲目の娘竪塩媛
異母兄敏達帝の皇后 兄敏達帝・用明帝
弟崇峻帝に続き4兄弟で即位
(2)皇極/斉明大王/天皇
父 茅渟王 母 吉備姫王(父・桜井皇子=欽明帝と蘇我堅塩媛の子) 敏達帝の曾孫
舒明帝の皇后
中大兄皇子(後の天智帝)・大海人皇子(後の天武天皇)の母
孝徳帝の姉
(3)持統天皇
父 天智帝 母蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智娘
天武天皇の皇后
大田皇女の同父母妹
(4)元明天皇
父 天智帝 母蘇我倉山田石川麻呂の娘姪娘
草薙皇子の皇太子妃
文武天皇の母
(5)元正天皇
父 草壁皇子 母元明天皇
聖武天皇の同父母姉
(6)孝謙/称徳天皇
父 聖武天皇 母 光明皇后(藤原不比等と県犬養三千代の子)
史上唯一の女性皇太子
十六代分割法
半数の四代三名が 皇后から大王/天皇へ即位している。 どのような理由または根拠で、皇后が天皇に成ったのか?を探る為に「女帝の時代」に至る迄の皇后の意味と位置づけを覧てみよう。
今回も「女帝の時代」をクローズアップさせるのに適切な 十六代分割法(住吉作)を用いて整理する。
(1)初代神武〜十六代仁徳
この時代の皇后には 大和及びその周辺の 有力者の娘や一族の女性がその地位に就いた
事代主・磯城県主・鴨君・尾張連・和邇臣・物部連・吉備臣・丹波道主・彦坐王・息長宿禰・武内宿禰等 各豪族から皇后を輩出し、の在地勢力が実務・政務を行う。そして、九州からやって来た天皇及びその男性直子孫が祭祀・象徴を司ると云う体制で国の運営がなされた。
しかし、仁徳帝は皇后亡き後、応神帝の娘・八田皇女を後皇后に迎え ここに初めて大王/天皇の娘が皇后位に就いた=この事件は大きな体制改革を意味するのだが、八田皇女の血脈から天皇は出ていない。
皇后の人数・・・18名
天皇の娘=皇女/内親王から皇后・・・1名
(2)十七代履中〜三十二代崇峻
前区分 応神帝・仁徳帝の治世から”倭の五王”と云われる時代に入った。
きっかけは、応神帝の母 神功皇后の「三韓征伐」からであろう。
朝鮮半島に進出した「倭」は百済・新羅を服属させ、東北アジアの軍事大国・高句麗に朝貢せしむるまでに強大化した。
しかし「倭の五王」最後の王=武=「雄略帝」が即位前後にライバルの皇位継承者を次々に殺害、やがて皇統は途切れそうになる。
この時代の皇后は先帝の娘が多く、その理由としては、前半(倭の五王)は天皇家に権力が集中し祭祀だけでなく統治まで管轄した証であり、後半(雄略期以降)は、皇族の減少から先帝の権威・体制を新帝が引き継ぎ吸収していかなければ政権運営に支障をきたす状況に至った事が原因と考えられる。
皇后の人数・・・14名
天皇の娘=皇女/内親王から皇后・・・10名
(3)三十三代推古帝〜四十八代称徳帝
さあ、女帝の時代である。今回は先に人数を示す。
皇后の人数・・・5名
天皇の娘=皇女/内親王から皇后・・・2名
藤原一門から皇后・・・1名
さすがに女性天皇が多い時代だけあって、皇后の数は少ない。
また、皇女から二人が皇后になったが、その二人が後に即位し推古帝・持統帝となった。
さらに、奈良時代以降近代まで朝廟を独占する藤原一門がここに登場する藤原不比等と県犬養三千代(県犬養家は三千代の活躍で橘の姓を賜り平家・徳川家と共に皇后を一名を輩出した)の娘・光明皇后である。
この藤原不比等が権力を掌握した途端、持統帝・元明帝・元正帝・孝謙/称徳帝と五代四名の女帝の出現を見たのである。今回のテーマで「藤原不比等」は間違いなく核となる人物であろう。
次区分以降は、参考資料として
1)皇后の人数
2)天皇の娘から皇后になった人数
3)藤原一門から皇后になった人数
を列記する。
(4)四十九代光仁〜六十四代円融
皇后の人数・・・11名
天皇の娘=内親王から皇后・4名
藤原一門から皇后・・・6名
(5)六十五代花山帝〜八十代高倉帝
皇后の人数・・・26名
天皇の娘=内親王から皇后・8名
藤原一門から皇后・・・17名
(6)八十一代安徳帝〜九十六代後醍醐帝
皇后の人数・・・22名
天皇の娘=内親王から皇后・9名
藤原一門から分析・・・13名
(7)九十七代後村上帝〜百十二代霊元帝
皇后の人数・・・3名
天皇の娘=内親王から皇后・0名
藤原一門から皇后・・2名
(8)百十三代東山帝〜今上(百二十六代)
皇后の人数・・・8名
天皇の娘=内親王から皇后・1名
藤原一門から皇后・・・3名
明治以降の一夫一婦制を採り入れた皇室の形体 それ以前の時代においては 天皇の権威・権勢の失墜と皇后の人数減は比例していた。
自らの即位の典礼も取り行えない経済状況では立后は難しかったのであろう。
しかし、女帝の時代だけは違い、天武天皇の皇親政治により天皇の権威は最高潮に達していた。
さらに両手で数えても足り無いほどの天武の皇子の中から即位した方は無く、唯一、孫の淳仁天皇が皇位に就いたが短期間で廃されている。
天武在位中は浪人生活送っていた藤原不比等は天武帝の死後、ごく短期間で朝廷のトップに躍り出たのだが、これは 持統天皇の手引きに因るものであったようだ。
中臣鎌足の子・藤原不比等、天智天皇の子・持統天皇の大化の改新コンビの復活だったのである。
藤原不比等に因る「女帝の時代」次回は日本書紀を離れて この問題を検証する。
特に古代版・皇室典範とも謂うべき存在を明らかにしたい。
住吉正州