昭和維新運動の源流 嗚呼 朝日平吾烈士

朝日平吾烈士祥月御命日

朝日平吾烈士と安田善次郎(左)

大正10(1921)年9月28日、昭和維新運動の源流となる衝撃が起こった。
安田財閥の祖である悪辣なる安田善次郎を朝日平吾という壮士が「深刻で意義のある」古武士的犠牲の精神による「大正維新」を決行したのだ。

陣営に戻り、帰り新参の身となった10数年前、決意新たに諸先輩・先人の国士の方々の墓所清掃を始めた。

殉国の愛国者の方々の墓が時と共に忘れられ、無縁仏の様な惨たる姿にしては申し訳ないという思いで始めたのであるが、数年前に西山廣喜一門の先輩である片瀬祐先生から、「来島恒喜烈士の墓に行ってるなら、朝日平吾烈士の墓も行ってくれ」と言われ毎年参拝に来るようになった次第である。

お盆の時に清掃に来たので今年は二度目の参拝となった。

明治に於ける大久保利通の紀尾井町事件・謎多き伊勢神宮不敬事件の森有礼・星亨刺殺事件の死を超える思想的深奥を感じてしまう壮挙であった。
そして事件に影響され37日後に一般青年による原敬暗殺事件が起きた。その大きなうねりは昭和維新運動となり、天皇の統帥権論を撥ね付けた浜口雄幸首相を東京駅で佐郷屋留雄先生が狙撃し、血盟団が井上準之助前大蔵大臣・団琢磨三井合名会社理事長を暗殺し、犬養毅が狙撃され死亡するという維新者の鉄槌が続発した。

第1次世界大戦末期の時代、不健全な大戦景気による成金続出の陰で物価高により勤労一般庶民は苦しい生活を強いられていた。
大正7(1918)年7月、富山で米騒動が勃発し、全国に拡大。神戸では、朝日新聞の虚報により民衆が暴徒と化し富商鈴木商店が焼き討ちされた。
大正8年1月に1石15円だった米価が6月には20円を超え、翌7月には30円を超えるという異常事態(当時の一般月収が18円-25円)となっていた。
大正9年には普通選挙が実施され、治安警察法廃止を求め数万人超えるデモが東京で起き、上野公園では第1回メーデーが開催され階級意識が高まっていったが、民衆運動や社会主義運動への弾圧が日に日に強まり民衆労働者に閉塞感が蔓延していた。
そして株価暴落が暴落し戦後恐慌が始まった。

朝日平吾烈士は佐賀生まれ佐世保育ちの人。

満州に渡り「馬賊隊」に参加した後、大陸浪人となったが夢破れて帰国したと言われている。
日本国民全ては、天皇の赤子せきしであり天皇のもとで平等である。社会をより理想状態に近づけるには、暴富を誇る財閥・富商が国家社会のために資する事や慈善事業の為の財を出すのは当然の義務であると独自主張により義挙に身を投じた。

この日は、皇太子裕仁殿下が摂政になるために初の欧州視察から帰国する日であった。

朝日平吾烈士が書き残した趣意書「死の叫び声」には「・・・前略・・・世の青年志士に檄す卿等は!大正維新を実行すべき天命を有せり而して之を為すには先ず第一に奸富を葬る事。第二に既成党を粉砕する事。第三に顕官貴族を葬る事。第四に普通選挙を実現する事。・・・嗟呼!夫れ何等の光栄ぞや何等の喜悦ぞや。 大正十年九月三日 東宮殿下を奉迎するの日書す」とあった。

朝日平吾烈士の葬式には、「安田に負けない葬儀をしよう」と、全国の労働組合や支援者が駆けつけたといわれている。

斬奸状 
奸富安田善次郎巨富ヲ作ルト、雖モ富豪ノ責任ヲ盡サズ国家社会ヲ無視シ貪欲卑吝ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ予其ノ頑迷ヲ愍ミ仏心慈言ヲ以テ訓ユルト雖モ改悟セズ由テ天誅ヲ加ヘ世ノ警ト為ス

大正十年九月
神洲義団々長 朝日平吾印

安田善次郎晩年の歌

  小鳥ども 笑わば笑え われはまた

     世の憂きことは 聞かぬみみずく

正義に結ぶ益良雄の破邪の剣が政財界の国賊奸物を次々と倒し、国家安寧の為に昭和維新を目指した魂を我々は継承し次世代に伝えなければならないと深く思う次第である。 

大墓公阿弖利爲の末裔

住吉同志も墓所清掃&参拝に参加してくれた
菩提寺の西信寺
菩提寺の西信寺