神風特別攻撃隊とは何か【其の五】最後の特攻

神風特別攻撃隊とは何か 最後の特攻 宇垣纏中将

宇垣纏大日本帝国海軍中将

物事には全て、始まりがあれば終わりが有る。
特攻を立案した人、命令した人、実行した隊員の方々、この人達が今の日本を世界に冠たる国家の礎を築いた人達である事を忘れては、此れからの日本の未来は見込め無いと思う次第である。

多磨霊園 宇垣纒中将墓所
多磨霊園 宇垣纒中将墓所

多磨霊園 宇垣纒中将墓所参拝

先般、多摩霊園に行く機会を得、宇垣纏中将を尊敬する私は墓参に誘われた事に対し大変感謝し清掃と墓参に同行した。
まずは、山本五十六大将・東郷平八郎大将・児玉源太郎大将・古賀峯一大将・阿南惟幾陸軍大将と参拝した。
皆、立派で高名な軍人である。墓も綺麗に掃除されていた。
そして、宇垣中将の墓所に着き愕然とした。
墓石も見えぬほどに草生し荒れ果てた墓所。
親族が絶えてしまったのか?と茫然とし、無言のままで同行の者と立ち竦んでしまった。
よく見ると中将の肩書きも無い小さな墓があり、其の墓碑には宇垣家之墓とだけ記され夏草だけが目立つお墓であった。
しかし、このまま茫然としていても仕方ない。
誰とも言わず三人で草むしりに汗をかき・・・

脳裏には、今の日本を見て宇垣中将がどの様な感慨を思うか・・・という思いが頭に浮かんできた。
特攻で散った英霊と、送り出した隊員達との約束を守り後を追った司令官大西滝治郎・・・
もし他に、歴史に埋もれた真の愛国者の方々を、寡聞にして知らない私に御教示いただけたならば幸いである。
そして夏草を草むしりした事を忘れないであろう。

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昭和20年8月15日、正午の玉音放送は雑音で聴き取りは難しい状況であったが、降伏を知った宇垣中将は自ら特攻出撃すべく山本五十六元帥拝領の脇差を手に飛行場に向かった。
「いまだ停戦命令に接せず、多数の純忠の将士のあとを追い、特攻の精神に生きんとするにおいて、考慮の余地はない」と言い切り出撃した。

最後の電文には
過去半歳にわたる麾下各部隊の奮戦にかかわらず、驕敵を撃砕し神州護持の大任を果すこと能わざりしは、本職不敏の致すところなり。
本職は皇国無窮と天航空部隊特攻精神の昂揚を確信し、部隊隊員が桜花と散りし沖縄に進攻、皇国武人の本領を発揮し驕敵米艦に突入撃沈す。
指揮下各部隊は本職の意を体し、来るべき凡ゆる苦難を克服し、精強なる国軍を再建し、皇国を万世無窮ならしめよ。
天皇陛下万歳。
昭和二十年八月十五日 十九二四 機上より

この特攻には「私兵特攻」と云う法律上の問題点も指摘された。
海軍刑法には、「指揮官休戦又は講和の告知を受けたる後故無く戦闘を為したるときは、死刑に処す」とある。
「玉音放送で終戦の大命が下されたのち、兵を道連れにすることはもってのほかである」との意見もあった。
しかし、二階級特進こそ認められなかったが、海軍刑法違反は不問に付されている。
国家存亡の秋であり、宇垣中将の決断を簡単に、単純に否定する事は間違いであろう。

「特攻」は、世界に強靭なる日本精神を見せ付け、武士道とは何か、誇りとは何かを示したともいえる。
現代世界で起こっている「狂信的自爆戦術」と真逆に位置する「特攻」を同一視してはいけない。
世界が日本人を侮らしめなかった根本には、是非正邪とは別の「特攻」があったこと忘れてはならない。
自分達はその恩恵の元に暮らして居ることを忘れては、人非人の謗りを免れない。
私は、この様な指揮官が居たことに日本人として誇りに思う。

悪党

多磨霊園 宇垣纒墓所清掃の休憩時にて
多磨霊園 宇垣纒墓所清掃の休憩時にて

【宇垣纏閣下略歴】

明治23年 2月15日 岡山県赤磐郡潟瀬村出身
明治45年 7月17日 海軍兵学校卒業(40期)
 海軍兵学校同期には、大西滝治郎中将やミッドウェー海戦で戦死した山口多聞中将・海軍次官を務めた多田武雄中将・ニューギニア戦線ビアク島で戦死した千田貞敏中将・福留繁中将・吉良俊一中将等がおられた。

青山霊園 山口多門中将墓所

大正13年11月    海軍大学甲種学生卒業(22期)
昭和 3年11月15日 ドイツ国駐在海軍武官補
昭和 5年12月 1日 第5戦隊参謀
昭和 6年12月 1日 第二艦隊参謀
昭和 7年11月15日 海軍大学教官・兼陸軍大学教官
昭和 9年10月30日 連合艦隊参謀・兼第一艦隊参謀
昭和11年12月 1日 海防艦「八雲」艦長
昭和12年12月 1日 戦艦「日向」艦長
昭和13年12月15日 軍令部第一部長・海軍少将に進級
昭和16年 8月 1日 連合艦隊参謀長・兼第1艦隊参謀長
昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃
昭和17年11月 1日 海軍中将に進級
昭和18年 4月18日 海軍甲事件(山本長官の僚機で被弾)・戦傷
昭和19年 2月22日 第一戦隊司令官
昭和20年 2月10日 第五航空艦隊司令長官/鹿屋
昭和20年 2月17日 九州沖航空戦
昭和20年 3月11日 梓特攻作戦
昭和20年 3月21日 神雷部隊出撃敢行
昭和20年 8月10日 第三航空艦隊司令長官/着任せず
昭和20年 8月15日 大東亜戦争終戦、特攻出撃、散華(享年56歳)