大東塾十四烈士

大東塾十四烈士七十七年祭

大東塾十四烈士七十七年祭 代々木練兵場跡地

大東亜戦争敗戦により、国内外を問わず多くの愛国者が自決された。
国家の復興再建と皇祚の無窮を祈り人柱となられた多く方々の御霊に哀悼の誠をささげる。

戦局を憂える大東塾生が八月十三日夜、塾顧問「小林順一郎」氏宅に赴き、九日閣議の非常情報を入手し、大東亜戦争終戦のことを知ったのであった。

翌十四日夜、影山庄平翁が世田谷区新町なる塾顧問「三浦義一」氏宅を訪ね、ここで終戦の事実を確認した。

且つ、御前会議に於て聖断を仰いだこと、明十五日正午玉音放送を以て終戦の聖断を宣示あそばされること、阿南陸相が自決した様子であること等を伝聞した。

十五日、朝から一同謹慎、正午、塾神前にラヂオを据ゑ、庄平翁以下一同禊の上慎みて玉音放送を拝聴慟哭した。

十六日、一同終日謹慎。

午后から塾の態度を決定するための重要会議が開催された。会議では「死か蹶起か」に就て種々論議されたが、事ここに至っては、もはや蹶起義挙の時機は過ぎ去ったものとして、庄平翁を筆頭に十四名全員の割腹自刃が正式に決定された。

二十三日、皇居前に於て明朗会十二烈士女が拳銃、短刀、カミソリ、服毒等によって集団自決をとげた。

二十四日、午後十時庄平翁以下全員塾長室に集合、最後の打合せを行ひ、各自共同遺書に署名した。

庄平翁が筆をとり

  清く捧ぐる吾等十四柱の皇魂誓つて無窮に皇城を守らむ

二十五日午前一時、庄平翁以下十四士は入念にみそぎを行った上で服装を整へ、白鉢巻と刀を持って粛然として塾神前に集った。

皆々頭髪を刈り、頭を剃り、眞新しい襦袢に白足袋、洗ひたての着物と袴、懐中に白紙とハンカチと紙入れを入れ、見ちがへるやうな清潔さで颯爽としてゐた。

自刃予定書

一. ひもろぎを立てる。

一. 一同着座。

一. 先生着座のまま、祝詞奏上、引続いて一同最后の復奏奏上。

一. 用意、双肌ぬぎ、刀に白布を巻く。
一.  先生「覚悟はよいか。最後に何か言ふことはないか」
一.  一同「先生のお祈りと一つであります」
一.  先生「霊魂著(と)く日の若宮に参上り、無窮に皇孫の御天業を翼賛し奉らむ」
一.  一同「彌栄」
一.  先生「いざ」

一. 一同同時に割腹自刃。但しカイシャクは腹を割いてからなす。

一. 野村、東山は全部を見届けてから然るべく最後を遂げること。

「自刃現場碑」の建立は三十四年三月二十五日に完成、四月三日午前十時から建碑除幕の祭典が遺族はじめ関係者百十八名参列のもとに厳修された。

碑中には自刃直後塾及び地元町内会有志の手で現場から拾収して保存されてゐた「血染の砂」が<鎮めもの>として納められた。

「大東塾十四烈士自刃記録」より引用、抜粋させて頂いた。

大東塾十四烈士七十七年祭-代々木練兵場跡
大東塾十四烈士七十七年祭-代々木練兵場跡

大東塾十四名の烈士は、「敗戦の責任を自らの命を神に捧げる」との信念のもとの行動であられたそうだ。

自分達が死んでお願い申してこそ神様がお聞き下され、百年後、千年後には必ず必ず神風を吹かせて元の日本にして下さる」との信念を持って地上に霊魂を残され、今でも代々木の地から皇国を見守られているのであろうと思うと感謝の念と無念の思いが交差する。

大東塾十四烈士七十七年祭-代々木練兵場跡