神風特別攻撃隊とは何か【其の四】特攻第0号

特攻第0号 第一神風特別攻撃隊「大和隊」久納好孚隊長

神風特攻隊大和隊 久納好孚隊長

公式には関行男大尉が大東亜戦争に於いての「特攻第一号」とされている。
大戦中の日本国内で新聞や映画ニュース等により戦争の英雄として大きく報じられた。
しかし、神風特別攻撃隊の出撃記録をチェックすると、この話には疑義が残る。
連合艦隊布告の「特攻一号」は関行男大尉、「特攻0号」は久納好孚中尉と言われている事だ?
関行男大尉率いる敷島隊出撃が、昭和19年10月25日10時45分。
セブ基地から大和隊の久納中尉が出撃したのは10月21日。
直掩機を伴わずに単独でレイテ湾に向かった久納機は、未帰還となった。

関行男大尉の特攻を報じる「写真週報」

帝国海軍徒爾のプライド

海軍兵学校出身者が「公式第一号」でなくては帝国海軍の面子が立たない、と云うくだらないプライドから生まれた様だ。
同じ特攻なのに、何故かと思う、この違い、先に記した通り久納中尉が兵学校行出身ではなく予備学生出身故か、海兵出身者という海軍エリートに対するプライオリティの犠牲になってしまったのであろうか・・・
どうも「特攻公式第一号」の名誉は、帝国海軍の面子が優先した様だ。
多分、関行男大尉もあの世で苦笑なさって居た事ではないかと推察する所である。

久納好孚中尉は愛知県出身で、関行男大尉と同じ大正10年生まれであるが、久納中尉は1月生まれだから、関行男大尉より7カ月年長であった。
法政大学を出て第11期飛行予備学生となり、その後201航空隊戦闘301飛行隊経て第一次神風特別攻撃隊大和隊隊長に抜擢された。
当時の中島セブ航空隊飛行隊長に、「私を特攻隊から除外される事は無いでしょうね?」と云うような根性の猛者であったと伝わっている。
それに対し中島飛行隊長も久納中尉に「君の乗る特攻はちゃんとマバラカット(比ルソン島)から今日持ってきてるよ」と答えると久納中尉はニッコリ笑って敬礼し飛行長の前を辞して行ったという。
出撃までの間、士官室の一角に置いてあるピアノを弾くのが毎日の事であった。弾くピアノの音は日ごと澄み渡り、態度は終始端然として潔かったと・・・
因みに出撃前夜の20日に弾いた曲は、彼の好きなベートーベンのピアノソナタ第14番嬰ハ短調op.27-2「月光」だったそうである。
この様な文武両道優れた人材が特攻で亡くなり本当に残念な気持ちになる。
今度、靖国に参る時には新ためてご挨拶したいと思っている。

特攻機の被害を受け1番煙突が倒壊したオーストラリア号
特攻機の被害を受け1番煙突が倒壊したオーストラリア号

セブを基地にしていた大和隊は飛行予備学生出身者が多く、敷島隊の様にニュース映画に撮られる様な派手な見送りもなかった。
関行男大尉よりも4日早い昭和19年10月21日未帰還となった爆装した零戰で大和隊列機とともに、直掩機1機に護られセブ基地から出撃した。しかし、僚機2機は悪天候の為、目標を捕捉出来ずに帰還したが、久納機は帰らなかった。
前日、彼は「明日出撃したら絶対戻らない。特攻出来なくともレイテ湾に行く」と言い残して居た。
それは裏付ける、中島少佐の「レイテ港の桟橋に特攻せよ。目的は戦果ではなく、死ぬ事にあるのだ」と言ったという惨い証言も残っている。
様々な証言を読むと、数々の不条理に激しい憤りの気持ちを抑えることが出来ない。

1946年に撮られた損傷復旧後のオーストラリア号

豪州戦艦に残された記録

アメリカの記録にはこの日の被害・襲撃の記録はない。
しかし、オーストラリア海軍の重巡洋艦オーストラリア号(HMAS Australia, D84 満載排水量:13,450屯)が、日本機の体当たり攻撃を受け、乗員29名が死亡したと云う記録が残っている。
出撃したのが夜が明けてからと云う話で、巡洋艦が攻撃されたのが薄暮の時間であったとの記録もあり、オーストラリア号に突入したのが久納機か不明の為、特攻第一号と認定されなかったのである。
しかし、私は久納機の特攻であると確信する。

豪重巡洋艦オーストラリア号は、戦争終結までに6度の特攻を受け86名の戦死者を出している。
帝国海軍も3週間が過ぎた11月13日、久納中尉の特攻戦死を認め全軍に布告し二階級特進少佐に進級された。

軍神の母としてこの様な和歌を詠んだ

 久納しず 詠

 靖国の宮に 御魂は 鎮なるも

   折々帰れ 母の夢路に 

悪党