国士の旅
お盆の愛国者墓所清掃・参拝報告
お盆の憂国烈士墓所清掃・参拝報告 毎年恒例で行っている盂蘭盆の季節に国の為に命を捧げられた殉国の国士の方々に感謝の誠と鎮魂の祈りを捧げる為に墓所清掃及び参拝を行っている。 毎年1日で周っているのだが、今年は時間の空いてい […]
秩父路を往く(九) 椋神社
人皇十二代景行天皇御代、日本武尊東夷征伐のとき、霧が深くて進めず、軍神である猿田彦大神に神慮を請い伊久良と云う地に鉾を立てたところ、光を放って飛翔し井泉の椋の木の下に老翁が出現し、皇子を導いたと云う。
平安期になり俵藤太による平将門討伐の祭、俵藤太が当社に詣で、祈願したことにより将門一門を討つことがかない、俵藤太によって春日四神を合祭され井椋いくら)五所大明神と号していた。
「椋神社」という名の神社は秩父には他にも4社存在するが、吉田の「椋神社」最も知られている。
境内で開催される秋祭付祭の「龍勢祭」龍勢煙火は国の重要無形民俗文化財に指定されており、伝統を受け継ぐ27流派により30本の龍勢が打上げられる。
龍勢と呼ばれる打ち上げ式の煙火は,五穀豊穣や天下泰平等を祈願して奉納する行事である。
明治17年(1884年)10月31日、秩父事件の困民党軍決起の地でもある。
【明朗会十二烈士女】弔魂七十七年
大東亜戦争敗戦の混乱の時期であった昭和20年8月23日午前、明朗会めいろうかいの会員が宮城前広場で二列縦隊に並んで宮城遥拝きゅうじょうようはい後、11人は短刀で割腹したうえ喉を突いて自決し、それを見届けた日比和一会長も拳銃で自決を遂げた殉国の義挙であった。
秩父路を往く(八) 城峯神社
景行天皇の皇子・日本武尊が東征の折、風光明媚な神山に登り、矢を納めて大山祇命を祀ったことが開創とされており、狼信仰の社としても知られている。
社の御眷属は「巨犬」大口真神とされており、社殿の前には日本武尊にちなむ山犬型の狛犬が控えている。
平安時代、平将門が下総で追討軍との戦いに敗れ、城峯山で再起を図ろうとしたが、愛妾・桔梗の裏切りによって儚い最期を遂げたという伝説があり、山中では今も桔梗の花は咲かないという。
官軍として追って来た藤原秀郷が乱平定後、祭祀を行い「城峯」の号を奉り、その後城峯神社と呼ばれるようになった。
秩父路を往く(七) 秩父御嶽神社
御嶽行者であった鴨下清八翁が明治二十八年十一月、木曾の御嶽山より御嶽大神を勧請し秩父御嶽神社を創建した。
清八翁は、日露戦争の後、東郷平八郎元帥の人柄と精神に感銘を受けて銅像の建立を志し、再三に渡り陳情した末、清八翁の誠心誠意の熱意が元帥の心を動かし承諾を得て像が建立された。大正十四年四月十七日の除幕式には、東郷元帥自ら随伴者とともにご臨席されるという栄誉も賜った。
国士巡拝相模【大塔宮護良親王】
北条高時(得宗家当主・第14代執権)の次男勝寿丸(相模次郎時行ときつら)が鎌倉幕府再興のため挙兵(中先代の乱)し、足利義詮よしあきらが治める鎌倉に攻め入った。足利氏の主力部隊は、後醍醐天皇の新政府が、足利氏が鎌倉を拠点に「新幕府」を起こすことを警戒していたため、尊氏とともに京都に留め置かれていた為、万全の防御態勢をとれなかった。
秩父路を往く(六) 出雲伊波比神社
神社に伝わる「臥龍山宮伝記」によると、景行天皇の53年に日本武尊()が東征を成し遂げ、凱旋した際、この地に立ち寄り、天皇から賜ったヒイラギの鉾をおさめ神宝とし、出雲の大己()貴()命() をまつったとされ、また、成務天皇の御代に武蔵国造兄()多毛比()命()が、出雲の天()穂()日()命()をまつり、大己貴命とともに出雲伊波比神としたとされている。
中世・近世には茂呂明神、毛呂明神、飛来明神、八幡宮などと呼ばれた。
秩父路を往く(五) 小鹿神社
秩父郡小鹿野町は、平安時代中期に編纂された古辞書「和名類聚抄わみょうるいじゅしょう」に記されている赤平川沿いの段丘地・巨香郷おかのごう)が小鹿野の始まりと伝わる古い歴史を持つ集落である。
秩父盆地の西奥に位置する小鹿野町には鉄道の駅舎がない。
荒川上流域の秩父地方にはオオカミ信仰(神犬信仰)の神社が三峯神社を筆頭に、寳登山神社・両神神社・龍頭神社、城峯神社など21社ある。
高山彦九郎先生所縁の地を訪ねて
幕末、維新の志士達に大きな影響を与えた、尊皇運動の先駆者である高山彦九郎先生。
彦九郎翁は、自らの尊皇思想を練り上げ、日本中に皇権復活「建武未遂の偉業の完遂」と復古神道の精神(日本民族固有の精神)を伝播した維新魁の志士である。
寛政2年、江戸滞在中の彦九郎翁は奥羽・蝦夷地を単身訪ねる決心をし、房総から津軽三厩を目指す長い旅にでた。途中、水戸で藤田幽谷・立原翠軒・木村謙次等と、米沢では莅戸太華等と、仙台では林子平と、各地で多くの人々と対談している。津軽に至りはしたが、海峡越えは難しく蝦夷地を断念し、光格天皇の新皇居還幸の儀式見学の為、京に急行した。そして、師走に京の地に舞戻った彦九郎翁に人生最大の喜びの時が訪れたのである。草莽一介の身を以て、その名が今上天皇の叡聞に達するを聞き、感激は頂点に達したのであった。