国士の旅
尊皇攘夷桜田義士・佐久良東雄先生
君がため朝露ふみてゆく道は たふとくうれしく悲しくありけり、
天皇に仕へまつれと我を生みし 我がたらちねぞ尊かりける、
「勤王家中第一の歌人」と賞賛された尊皇攘夷桜田義士・佐久良東雄先生、桜田門の変に際し大坂で高橋多一郎をかくまい上方で捕縛後、護送された伝馬町牢獄で無念の中で獄死、
秩父路を往く(四) 秩父神社
6~7世紀頃まで武蔵国北西部に存在していたとされる古代の國が「知々夫国」である。
後の「武蔵国」は大化の改新で「無邪志国(むさしのくに)」と「知々夫国」を合わせ一国として成立した。
「知知夫の国」その総鎮守である秩父神社の御創建は、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神である八意思兼神をお祀りしたことに始まる。
葦津珍彦翁【祥月御命日】
日本の思想家の中で、もっとも敬愛する一人が葦津珍彦翁である。神道思想家であり民族派行動者であった葦津翁は、「神道・天皇の弁護士」を自認されていた。
大東亜戦争敗戦により連合軍GHQに占領された我が日本は、建国以来最大に危機に瀕した。悪意ある白人レイシスト共は、国家神道をファシズム的国教と決めつけ、徹底的に弾圧を加えてきた。
更には、天皇をも危うい空気の中で、徹底して「国体護持」の活動に尽力された隠れた英雄が葦津翁なのである。
国士巡拝武蔵【諸嶽山總持寺】
本日、6月2日は閣下の生誕の日でもある。
昭和20(1945)年8月16日未明、特攻で戦死させた将兵に陳謝し、英霊と遺族への償いの為、腹を十文字に切って喉を突き、なるべく苦しんで死ぬようにと介錯を断り、自らの血の海で半日以上も悶えた末に絶命された。
自ら特攻に出撃した宇垣 纒海軍中将以外も、多くの指揮官はその後残りの一生をかけて贖罪された方が多いと伝え聞く。 敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花 宣長
秩父路を往く(参) 竹寺
山岳信仰の道場として千年余の歴史を有した日本的精神の基となった神仏習合の遺構である。
昔の巡礼者は標高640mにある第32番札所の子ノ権現天竜寺から豆口峠を通って、難行の末やっとたどりついたであろうことが想像される鳥居の下の茅の輪をくぐってお参りを…
と言うと神社と思われるが、ここはお寺。本尊も仏様ではなく「牛頭天王」を祀り、本地仏に「薬師如来」を配している。
秩父路を往く(弐) 子ノ権現
子ノ権現縁起に、「魔火のため腰と足を傷め悩めることあり。故に腰より下を病める者、一心に祈らば、その験を得せしめん。」とあり、古より足腰守護の神仏として広く信仰を集めている。江戸時代に参道は5筋あった。
今秩父は熱いのである!
秩父路を往く(壱) 高山不動尊
武蔵の高幡不動、下総の成田不動と並んで「関東三大不動」の一つに数えられる奥武蔵の名刹が高山不動尊、正式名は「高貴山常楽院」
創建は654(白雉5年)という古刹で、往時は標高600mという奥武蔵の山中に36坊を持つ修験道場として隆盛を極めていたそうである。
沼山光洋烈士【殉節日】
腐りきったマスコミが無視する中、沼山光洋烈士の靖国の忠霊(英霊を沼山烈士はこう呼んでいた)と大楠公の精神に対する実践と思い、靖國神社への御親拝を願う切実なる真心、そして日本及び日本人に命を賭しての諫言を一人でも多くの日本人に正しく伝えるために沼山烈士が残した最後の言葉。天皇陛下・皇后陛下には心より皇室の弥栄を御祈念申し上げます。
嗚呼 高山彦九郎先生
本日は維新魁の志士「高山彦九郎先生」の御生誕の日である。延享4年5月8日(1747年6月15日) - 寛政5年6月28日(1793年8月4日)幕末、維新の志士達に大きな影響を与えた、尊皇運動の先駆者である。 彦九郎先生は、自らの尊皇思想を練り上げ、日本中に皇権復活「建武未遂の偉業の完遂」と復古神道の精神(日本民族固有の精神)を伝播した維新魁の志士である。
昭和大帝を偲び・・・
本年は昭和天皇の御生誕から百二十一年となります。昭和天皇は,明治34年4月29日,大正天皇の第一皇男子として東京・青山の東宮御所でご誕生になりました。御名を裕(ひろ)仁(ひと)ご称号を迪宮(みちのみや)と称されました。