天皇弥栄

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第九十五代天皇 花園天皇

伏見天皇の第四皇子。母は、左大臣洞院実雄の女、洞院季子(顕親門院)。
歴代随一の好学の帝。歴代天皇の記録や和漢の史書、老荘をはじめ諸子百家にわたって読破された。
詩歌を好み「風雅和歌集」を監修され、帝道を説いた「学道之記」「誡太子書」などを宸翰された。

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第十二代天皇【景行天皇】 

第十二代天皇。景行天皇。垂仁天皇(活目天皇)の第3皇子。日本武尊の父。皇后は播磨稲日大郎姫はりまのいなびのおおいらつめ。
武内宿禰に視察させた東国の蝦夷平定を日本武尊に命じた。

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第百十七代天皇 後桜町天皇

後桜町天皇。皇室史における最後の女性天皇。桜町天皇と、正妻女御舎子(青綺門院)の間の嫡出腹の皇女として生まれた。第116代桃園天皇は異母弟。
光格天皇譲位後も、上皇として後桃園天皇・その後に即位した光格天皇の教育・補佐に当たりました。
「天明の大飢饉」の際にも上皇は3万個の和リンゴ配られ民衆救済に尽力を尽くされました。

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第百代天皇 後小松天皇 

6歳で第6代北朝天皇に即位し、16歳の時に南朝の後亀山天皇から神器を受け取り南北朝の合一を果たし第百代天皇と成られました。
実際、条件にあった持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)が交互に天皇となるという「両統迭立」の約束も果たされず、皇統は後小松天皇の系統で受け継がれることとなる。
足利義満の策略により、合一の条件にあった両統迭立の約束も果たされなかった。南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動の武装蜂起をおこしたが、やがて歴史から消える事となった。

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第三十四代天皇 舒明天皇 

推古天皇元年御誕生
舒明天皇十三年十一月十七日崩御
父は敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子。母はその異母妹糠手姫皇女、(田村皇女)。
推古天皇の没後、蘇我蝦夷は山背大兄王(聖徳太子遺児)と対立し、闘争に勝ち田村皇子の即位を実現した。
天皇は姪にあたる宝皇女(のち皇極・斉明天皇)を皇后として葛城皇子(天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇皇后)・大海人皇子(天武天皇)を儲け、蘇我馬子の娘法提郎媛を夫人として古人大兄皇子を生み、吉備の蚊屋采女に蚊屋皇子を生ませた。
在位中、最初の遣唐使を送り、唐からの高表仁の返訪を受け、百済と新羅からの使節も訪れた。

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醍醐天皇 第六十代天皇

最長の33年間在位されました。
醍醐帝は和歌の振興に力を入れ、延喜5年(905年)には「古今和歌集」の撰進を紀貫之らに命じられ、御製が43首も入っているほか、家集「延喜御集」も編まれました。

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後土御門天皇 第百三代天皇

即位され、わずか数年で応仁の乱が勃発し都の市街地は大半が焼失した。それに加え痘瘡が流行し大混乱の世情であった。そんな状況でも帝は、朝廷の古来の儀式の復活に熱意を注がれ元日・白馬・踏歌の三節会は再興された。また和歌・連歌をよくし,歌集に「紅塵灰集」「いその玉藻」などがある。
日野富子兄妹等の専横や禁裏領荘園の押領に対し5回もをかんがえたが、足利将軍家に拒否された。
朝廷の困窮は極まり、恐れ多い事ではあるが御遺体が40日も放置されたと伝えられている。

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第九十代天皇 亀山天皇

後嵯峨天皇の皇子。母は中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。南朝(大覚寺統)の祖。
兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、亀山系南朝と後深草系北朝(持明院統)による対立が生じる端緒となった。
院政時代に「元寇」。
「身をもって国難に殉ぜむ」という強い決意であった。「増鏡」には、もし日本が侵略されるようなことがあればどうかこの命をお召しください、と筆をとられたことが記されてる。

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順徳天皇 第八十四代天皇 

順徳天皇 順徳天皇御製  都をば さすらひ出でて 今宵しも   うきに名立の 月をみるかな 仁治3年9月12日に崩御 されました。 【御名・別称】守成もりなり・佐渡院 【陵所】大原陵おおはらのみささぎ・真野御陵(順徳天皇 […]

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後奈良天皇 第百五代天皇

後柏原天皇の第二皇子。母は勧修寺教秀の女の勧修寺藤子(豊楽門院)。
慈悲深く、天文9年、天下大疫平癒を祈願され心経を写経され、大覚寺と醍醐寺のほか、全国24か国の一宮に納められた。

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