第十七代天皇【履中天皇】

履中天皇【第十七代天皇】

埴生坂はにふざか 我が立ち見れば かぎろひの

 燃ゆる家群いへむら 妻が家のあたり

履中天皇6年3月15日に崩御 されました。

【御 名】大兄去来穂別尊おおえのいざほわけのすめらみこと

【陵所】百舌鳥耳原南陵もずのみみはらのみなみのみささぎ

即位65歳、在位6年、宝算ほうさん70歳

仁徳天皇第一皇子。仁徳31年(343年)1月15日、大兄去来穂別命が8歳で立太子された。仁徳天皇は早くからこの第一皇子を後嗣として決めておられたが、即位は56年後となった。

「記・紀」では、先帝崩御の直後、即位直前に同母弟で第二皇子の住吉仲皇子すみのえのなかつみこによる謀反大逆の「墨江之中津王の乱」が起きたと記されている。
この反乱には多くの矛盾と謎が残っている…
応神天皇までは末子相続だったので、皇位継承争いも兄弟相続もなく、ほぼ直系によってスムーズに継承されてきたが、仁徳天皇より長子相続になった。履中天皇の長子の年齢が若すぎた為に兄弟相続となったが、この相続方法が後の時代に相続争いを引き起こすもととなったのである。

治世では、初めて諸国に国史ふみひとを置き、四方のふみ(国内情勢の報告)を編纂させた。そして、蔵職くらのつかさを建て蔵部くらひとべを定め、次第に複雑化していく国家財政を安定させようとされたという。

支那の「宋書」倭国伝の倭王さんに比定する説がある。